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「そうね、知ろうともしないのなら教える気もないわ」
白いバンの男は、それでも知る者の責務だ、怠慢だ、などとつぶやいていたが、女将の無関心な表情にあきらめたかのようにロッジを出て行った。
目を覚ますと良子はベッドの上にいた。そして、窓の外から怜の声が聞える。はしゃいだ声。良子が慌てて外に出た。怜が、きゅうりにかじりつきながら、女将と談笑していた。その顔は、昨日のことなど、いや、不登校だったころの冷たい怜が嘘だったかのように、笑っていた。言葉もなく立ちすくんでいる良子に気づいた怜は、良子にかけより叫んだ。
「母さん、川で魚がつれるんだって!」
お兄さんが竿を貸してくれるって。僕、行ってもいいでしょう?…ええ、わたしも一緒になら。
女将にアレはどうなったのか、と聞いた。アレって何のことですか、と怪訝な顔をされて困惑する良子。釣りだー釣りだー、と叫びまわる怜は、昨日までの怜とはまったく違う。怜をじっと見て、女将をじっと見て、良子はすっかり、分からなくなってしまった。昨晩のアレは一体なんだったのか、そして、私たちはどこにいたのか、何より、雨でずぶぬれになってしまったパジャマは、今こうして着ている。夢だったのだろうか。夢だったにしても、怜の変わりようは一体どういうことなのか。
「怜は残らない」
ふっと、女将の言葉を思い出して、女将を見る。女将は良子に「疲れはとれましたか?」などと、言う。昨日のことがなかったかのように。また、目の前の元気な怜を異質に感じた。私は夢を見ていただけだったのか。
あの一年間を過ごした怜は、一体どこに行ってしまったのだろう。仕事を辞めて1年、この子のために時間を費やしてきた。私は、誰に愛情をかけてきたんだろう。息子のそばにいたのだろうか。それとも。
昨日までが嘘のようなこの怜の朗らかさは、不登校になる前の、怜だ。生まれたとき、ハイハイしたとき、幼稚園で良子と離れたくなくて、大声で泣き叫んだ怜。公園でも、はしゃぎすぎて、私が追いかけることばかりだった。あのくったくのない笑顔が、今、そこにある。
ああ、小学生になってだろうか。少しずつ、あの冷たい顔をするようになったのは。あの冷たい顔の怜はどこにいったんだろう。あの冷たい怜は、私の息子だったんだろうか。怜じゃなかったんだろうか。
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