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「おい、もう少し顎をさ、上げてくれないと。」
「無理…です…」
「何で?顎上げるだけだよ?」
「無理…」
「キスするだけじゃん。何で駄目なの。」
「こんなとこで…出来ません…」
いつもこうなります。いつもこうなって、いつも僕は混乱する。
僕にはほとんどキスの経験など、ないのです。皆無なんです。
「誰もいないよ。それとも、見られながらするのがお好みかな?」
「違う!」
「声、大きいよ。はい、そのまま。顔こっち向けててね。」
彼の体温が僕に伝わって、その温度が徐々に混ざっていく。
「こっち来る前、何か食べてきた?ハムの良い香りがする。」
やばい。いつもはちゃんと歯磨きしてくるのに。今日は少しだけお店が忙しくてそれどころじゃなかったんだった…怒られるかな…どうしよう。
「新作、黒澤さんに試食させてもらったんです。」
「黒澤さんってさ、ゲイ?」
「え?違うと思いますが…」
黒澤さんがゲイ?結婚してたはずだけど…違ったかな。
「君の事、妙に気にかけるよね?もしかして何かされた?」
「あなたとは違う!」
やばい、思わず声が。でも、黒澤さんはそんな人じゃない。黒澤さんは優しくて面白くて、それに…
「声、大きいよ。いくら何でも誰か来ちゃうよ。」
今、僕と彼は、この会社の地下にあるとてもお洒落なバーらしきお店の角の方にある控室のようなところで二人っきりでこの空間を占領しています。
「ここって本当にいいんですか?」
「何が。」
「だってここ、明らかに会社じゃないのに…」
「何を今さら。そんなこと考える余裕あるんだ。」
「いえ違います!ずっと気になってたんです!」
「声、大きいよ。元気、あるみたいだね。はい、顔、こっち向けて。」
「嫌です…」
「嫌なら。」
「え?」
「無理矢理向けさせるまでだ。」
彼のしなやかな指の何本かが僕の頬をしっかりと包み、僕はその力に自分の翻弄されていくこの神経を、ただただ委ねることしか出来ませんでした。彼の握力は強くて、体も締まっていて、男の人の全ての魅力を兼ね備えているのだと、彼と初めて過ごした夜に、考える余地のないくらいにそれを感じました。そしてその日も、初めての夜と同じように、僕は彼に翻弄されて乱されて、また彼を、少しだけ好きになったのです。
そんな事を思い出しながら、時間は刻々と過ぎて行きました。
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