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「いらっしゃいませ、こんばんは。」
「あ、どうも。」
入口の方で声が聞こえて、彼が店内に入ってきました。少し顔が疲れているようで、これはきっと予期せぬ残業か、取引先の電話が長引いたかそんなところだろうと、前の僕にはわからなかった彼の表情から読み取れる憶測を、僕は密かに楽しみにしています。彼に言うと、きっと激怒しちゃうだろうし、これは僕だけの大事な大事な秘密事なんです。
「コーヒーとクロワッサン。テイクアウトで。あ、砂糖いらないんで。」
彼はいつもブラックで、僕はそのブラックにいつも何かしらを入れてみませんか?と提案をするのです。おいしいミルクが入った時とか、こだわりの砂糖が手に入ったとか、色々な理由を付けてブラックを飲ませないようにします。だって、ブラックだと、夜、全然寝てくれないんです。これは、僕にとっては死活問題なんです。
僕達は店内では決して目を合わせません。微かな目線を交わす事も避けています。ちらっと見るだけはOKで、誰か入ってきたなというような雰囲気で見る、それが暗黙のルールなのです。あ、彼が外で待っている。今日はテイクアウト分早く出来上がったんだな。
「僕、行きます。」
「あ、お疲れ様。今日も泊るの?あんまり無理しちゃ駄目だよ。色々とね。」
「はい。気を付けます。」
店内に出ると、彼の車が重々しい雰囲気で僕を待っていました。
いつも開けるのにどきまぎするそのドアを、今日も緊張しつつもそっと開ける。そしてそっと、車内に入る。
「ごめんね。遅くなった。」
「いえ…お疲れ様です。」
「どした?何か元気なくないか?」
「いえ…普通です。」
「そっか…はあ、疲れたな…」
彼の指が僕の首を静かに伝う。その感触に少し体が反応して、思わず声が漏れる。
「冷たかったか?」
「いえ、すみません僕…」
「怒んなって、な?」
彼の指が僕の首を掴み、僕の動きを止める。僕はもうされるがままです。
香りが、彼の香りが、僕の口元に近づく。
「あ。」
「え?」
「わりい、買い忘れたものあったわ。ちょっと待ってて。」
彼がもう一度店内に戻って行く。
何なんでしょうか、これは。この仕打ちは、いったい何なんでしょうか。
僕の脳裏に様々な良からぬ妄想が飛び交う中、すぐに彼が車に戻ってきました。
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