第1章 東風 ~彼女は煙草の香り~

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葉月の口づけの意味も解らないまま、一ヶ月ほど過ぎた。 何事もなかったかのように、学校は春休みに入り、 颯は所属している陸上部の練習に出るためだけに、 学校のグラウンドに通っていた。 学食で昼飯を食べる時以外は、教授や生徒たちが集う建物棟には、 近づかなかった。 練習を終え、帰り支度をしていると、杉崎敬治がグラウンドまでやって来た。 こんな所まで来ることも珍しいが、見たことのないスーツ姿だ。 「どうしたんですか?」 「ん?ああ、俺、4月から都内の大学ので、 講師をすることになった。」 「あ、おめでとうございます。出世じゃないですか。」 三十代で講師なら、相当早い方だろう。 「まあ、ここともお別れだな。」 咥え煙草の煙を大きく吐き出すと、頭をガリガリと掻く。 「ところで。・・・葉月のことなんだが・・・」 颯は、ドキリとする。 あの時の事は、敬治には言っていない。 黙って、その先を待っていると。 「好きな男が出来た、と言われた。」 「そうなんですか・・・」 なぜか、胸が苦しかった。 「それで、別れて欲しいって・・・」 「・・・はぁ。」 なんと答えていいか解らない。 「颯、そいつが誰か知ってるか?」 首を激しく振る。 「いいえ。オレがわかる訳ないじゃないですか! それに、そんなこと知ってどうするんですか。」 「まあ・・・うん、そうだな。」 「いや、お前ならしゃーねぇかと思ったんだがな。葉月が違うって、言うし。」 「オ、オレじゃないですよ。」 答えながら、颯に焦燥感が沸き上がる。 「悪い、邪魔したな。」 「いえ。」 「ま、送別会に顔出せよ。」 「はい、わかりました。」 杉崎が立ち去ると、颯は暫く夕焼けの中、佇んでいた。 汗が冷えて、身震いするまで。 あの口づけは何だったんだ。 すっきりしない澱だけが残った。
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