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時刻は深夜の時間帯になっていた。
工藤和彦はヘッドライトの光芒を頼りに車を走らせていた。隣には篠原百合子が乗っている。
この時間でも大通りを走る車は多かった。
二人は密会を済ませた帰りだった。互いに忙しい中で時間を作り、月に1、2度の割合で、ひとときの快楽を愉しむ仲だった。
助手席で百合子は終始、押し黙っていた。 疲れているせいか、帰りはいつもそうだった。
和彦も百合子に気をつかって、口数は少なくなる。時折、一言二言の会話をすることもあるが、別れが寂しいのか、それとも、ただ疲れたから口を聞きたくないのか、いつもこんな調子で車内は沈黙してしまう。
かれこれ二年になる。
二人が出会ったのは、和彦の行きつけの店だった。仕事で疲れていても、気分転換に落ち着いた所で、酒を飲みたくなることがある。遅くなって家に帰ると、妻には嫌な顔をされるが、これが唯一の楽しみであるために、和彦はそれをやめる気はなかった。
その日は、取引先とのトラブルがあり、少し気持ちが荒れている時だった。
店に入ると和彦は面食らった。カウンターのいつもの席に、先客がいたのだ。白いスーツを着た女だった。
その容姿が和彦には眩しく映ったが、水商売の匂いはしなかった。
和彦は仕方なしに、一つ置いた隣のスツールに腰を降ろした。座る時、その女の顔をちらりと見た。女も和彦に短く視線を送った。
目と目が合ったが、和彦は会釈をすることもなく、すぐに視線をそらした。
「マスター、いつもの」
和彦の言葉にバーテンダーは丁寧に返事をした。
女は30代後半から40代前半に見えた。男の目を引く煌びやかな印象を与えるが、遊び人といった風ではない。
それが百合子だった。
しばらく黙って飲んでいると、先に声をかけてきたのは、意外にも百合子の方だった。煙草を吸おうとした百合子はライターが見つからず、カウンターの一つ隣に座っている和彦に声をかけてきた。
「すいません、火、ありますか」
少し戸惑ったような言い方だった。それが和彦の気をひいた。見た目ほど、傲慢ではないのかも知れない。
気取っているところもなかった。
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