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それは百合子の口癖のような言葉だった。百合子は和彦の妻に、自分との不倫が知れることを恐れていた。
「大丈夫だよ。妻は何も気づいていない」
「そう。ならいいけど。わたしはあなたの家庭を壊すつもりはないから。たまにこうして会って、愉しめればいいんだから」
「わかってるよ。俺もこの歳になって、波風を立てるつもりはない」
そう言って、和彦は百合子を見て笑みを浮かべた。
「あなたも大変ね。そんな忙しい思いをしても、奥さん暖かく迎えてくれないんだから」
「もうあきらめてるよ。結婚して二十年も経てば、愛情なんて冷めてくるさ」
「そういうもんかしら。割に合わないわね。家族のために一生懸命働いてるのに」
「そんなもんさ。夫婦と言っても所詮は他人だからな」
「それは言えるわね。あたしもそうだった。この人なら、と思って結婚したのに、結局は自分の生き甲斐を手放す事はできなかったんだから」
「店のことか」
「そうよ。家庭を守るなら、店を辞めるしかなかった。冗談じゃないわ。あの店はあたしの命なんだから」
「それはもう何度も聞いたよ。店を持つために血の滲むような努力をした、だろ」
「そうよ。好きでもない水商売をして、すけべなオヤジの相手をして、虫唾が走るったらありゃしない」
「そんなにまでして、資金を作ったんだから、よっぽど店を持ちたかったんだな」
「その店を手放すなんてこと、あたしにできると思う?」
「無理だろうな」
「まったく、結婚が女の幸せだなんて、誰が言ったのかしら。笑っちゃうわ」
「いいじゃないか。今は幸せなんだから。そうだろ」
「そうね……」
百合子は和彦の顔を見て笑みを浮かべた。
和彦は手を伸ばして、百合子の手をつかんだ。百合子はその手を握り返した。百合子が視線を絡めるように和彦の目を見つめた。和彦もそれに応えた。
和彦がはっとして、急ブレーキをかけたのはその後だった。突然、人の姿が道路に見えたのだ。
「危ない!」
百合子が思わず叫んだ。和彦が短い呻き声をあげた。
タイヤの鳴き声が辺りに轟いた。だが、すでに遅かった。車はバウンドしながら、その上を通り過ぎた。人の姿は車の後方の路面に横たわっていた。
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