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倒れているのは男のようだった。頭から血を流して動かない。息をしている様子もなかった。歳格好までは判らない。車の中から判別できなかった。
二人は息を呑んだ。目を見開いて、互いに顔を見合わせた。赤いブレーキランプが、倒れた男の顔を鈍く照らしていた。
「死んだのかしら……」
百合子は震える声で言った。手は知らず知らずのうちに、和彦の腕をつかんでいた。
「わからない……」
「早く、救急車を呼ばなきゃ」
百合子は、和彦の腕をゆすって言った。
「待て」
和彦は辺りに目を走らせた。
「誰も見てない」
「あなた……まさか……」
百合子は目を見開いた。
「いいんだ。このまま行くんだ」
「駄目よ! そんな……それじゃ、轢き逃げじゃない」
百合子はバッグの中から、携帯電話を取りだした。
「あたしが救急車を呼ぶわ」
そう言いながら、百合子が番号ボタンを押した。和彦が素早く百合子の手を押さえた。
「待てと言ってるんだ!」
「どうして! 放っとけるわけないでしょ。死んじゃうわよ」
「今、警察に知らせたらどうなるんだ。俺たちの関係も世間に知られるんだぞ」
「だけど……」
「そうなったら、俺もお前も一巻の終わりだぞ。俺は捕まり、お前だって世間から白い目で見られるんだ」
百合子は和彦から視線を外した。恐怖のせいで目が揺れていた。言葉を失っている百合子に、さらに和彦は言った。
「落ち着け。冷静になるんだ。こんなことで人生を棒に振ってもいいのか。店はどうするんだ。お前の大事な店なんだろ」
「でも……」
「大丈夫だ。誰も見てない」
和彦はそう言うと、再び車を発進させた。道に倒れている男だけが取り残された。
「やっぱり無理よ。逃げ切れないわ。戻りましょうよ」
少し走った所で、百合子が言った。
「馬鹿! 何を言ってるんだ」
「駄目よ、そんなの……」
「俺はごめんだ。だいたいあの男は始めからあそこに寝ていたんだ。たぶん、酔っぱらったか何かして、寝ちまったんだろう。あんな所に寝てる方が悪いんだ。ちくしょう!」
和彦は前を見たまま毒づいて、ハンドルを叩いた。
百合子の恐怖は、次第に膨れあがっていった。顔の表情をなくし、躰の震えは止まらなかった。
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