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家庭は落ち着いているように見えたが、美佐子が和彦に心を閉ざしていることは、和彦自身が一番よくわかっていた。昔のように心から笑顔を見せることは、もうなくなっているのだ。
和彦にとってこの家庭は針の筵以外の何ものでもなかった。
子供達にも携わってないせいか、会話は滅多にない。子供達からも話かけてくることはなかった。自分から話かけようと考えることもあるが、話題が見つからない。
もはや、美佐子と暮らすことは、意味のないものになっていた。和彦は時々、美佐子と離婚して、百合子と結婚できたらどんなに幸福だろうと思うことがある。
しかし、それは叶わぬ夢だった。百合子に結婚の意志はなく、美佐子にも離婚の意志はなさそうだった。仮に離婚に応じたとしても養育費や、莫大な慰謝料を請求するに決まっているのだ。
和彦自身も離婚ということになると、いささか腰が引けるのは事実だった。会社への体裁や面目もある。
そんな中で、百合子の存在は和彦にとって快楽だけではなく、心のオアシスのようなものでもあった。なくては生きていけない。
その日、百合子から携帯に着信があったのは、午前十一時を過ぎた頃だった。
和彦はその時、午後からの打ち合わせの準備をしていた。資料を揃えて、目を通しているときに携帯が鳴った。
「どうしたんだ、こんなところへ……」
和彦は辺りの社員の目を気にして声をひそめた。その電話が、良くない電話であることは容易に察しがついた。
和彦の心情はまた新たな不安を掻き立てられた。
「今、テレビのニュースでやってたの。昨日の事故のこと」
百合子も少し声を抑えて話しているようだった。周りに人がいるのだろう。
「なんだって! それで、何て言ってるんだ」
「相手はやっぱり死んだらしいわ。即死だそうよ」
和彦は言葉を失った。予想はしていた事だった。それでも、針の穴ほどの望みは抱いていた。それを打ち砕かれたダメージは、さすがに堪えた。
「どうするの……あたし、恐いわ」
百合子は涙声になっていた。
「落ち着け。今どこだ」
「お店よ。事務所から……」
「傍に誰かいるのか」
「いるわけないじゃないの。みんな追い出して、電話してるのよ!」
百合子は声を抑えながら、半ば怒鳴るように言った。
「ねえ、お願い会って……恐いのよ」
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