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彼がその不思議な出来事を体験したのは、八月も半ばに差し掛かり、毎日うだるような暑さが続いていたある日のことだった。昼間は容赦なく照りつける太陽のせいで、とてもじゃないが日の当たる場所になんて行こうとも思わない炎天下であったが、日も傾き夕方ともなれば多少気温も下がり、ようやく出かける気にもなれた。空が橙色に染まり、ヒグラシが鳴き始めれば夕涼みには持って来いの、どこか懐かしい空気が辺りを包んだ。出かけるといっても遠出はできない。ただ、趣味である音楽を誰かに聞いてもらうために、毎日近場で楽器を鳴らしては人が集まるのを待っていた。
「さあて。今日はどんなお客さんが来ますかね……」
自慢の楽器を鳴らしながら人が集まるのを待った。奏でる音色が夏の蒸し暑い空気を伝っていく。生まれてから今日まで、音楽以外に興味を持てるものがなく、物心ついたときには自身の奏でる音色で、聞く人を魅了することが自身の喜びになっていた。
「俺好みの可愛い女の子が来て……。「素敵ですね。今の曲も、あなたも……」なんて言われちゃったりして……。くっはぁ!たまんねえ」
そんな下心もあったりしたわけだが、曲数を重ねていくうち、徐々に演奏に力が入っていく。数曲演奏し終わったところで、どこからともなく声をかけられた。
「素敵……ですね」
いつの間に現れたのだろうか。目の前に立っていたのは、まだ幼さの残る小柄な少女だった。――可愛いかも――そんな月並みな感想が、彼女の第一印象であった。
「お、おう。見ない顔だな。初めてか?」
「うん。この辺に来るのは初めて。なんだか綺麗な音が聞こえたから、ついふらっとね」
「そっか!俺さ、晴れてる日は毎日ここにいるんだ。せっかく来たんだし、もうちょい聞いてけよ」
「うん。ありがと」
柔らかく微笑む彼女の笑顔に、早くなる鼓動を抑えながら演奏を続けた。自慢の曲を何曲か演奏して、ふと顔を上げると、彼女と目が合った。
「えっと……どう、かな?」
「ほえ?あっ、き、聞き入っちゃった……」
「そ、そっか。あ、ありがと」
「素敵ですね。その楽器の音色。それと……」
「お、俺も?」
「曲の雰囲気も……って、え?」
違った。まあ、気に入ってもらえたことを素直に喜ぶとして、気付いて見れば辺りはすっかり暗くなっていた。
「あ。そろそろ帰らなくちゃ」
彼女は立ち上がりながらそう言った。
「うん。よかったら、また来いよな」
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