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「綾瀬さん」
低く甘い声が、うつ向いた私の上から降ってくる。
「……は、はい」
答える声が、上擦った。
フロア中の視線が、ここに集中してるのが分かる。
次の言葉をドキドキしながら待っていると、社長が言った。
「落ちていましたよ」
「……え?」
彼の言葉に顔を上げる。
すると、目の前に、バーに忘れてきた私の社員証が揺れていた。
「『社内の廊下に』落ちていました」
(……廊下に?そんなはずない)
一瞬そう思ったけど、それが、あえての嘘なんだって気づく。
(……そりゃあ、そうだよね。昨日、一緒にいたバーに忘れてたなんて言えないよね)
さっき、密かに抱いた「二人の付き合いを公言する」なんていう、あり得ない妄想をさっと頭の隅に追いやった。
「ありがとうございます」
ほっとしたのと、ちょっと残念な気持ちが入り交じりながら、私は、社長から社員証を受け取る。
その時。
社長の指先が、私の指先をなぞっていき、すうっと離れていった。
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