KISUMI

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下手な言い訳に納得してくれたのかどうか、真美さんが僕に向かって手を合わせる。 横でマスターが、「逃げられたって言うな」と控えめに抗議しているが無視されている。 おいでおいでと真美さんが手招きをするので、僕はカウンターのスツールに座った。 その間にマスターはポットに湯を沸かして紅茶を入れる準備を始めた。 「じゃあ、よく眠れたのね?」 「はい。ありがとうございます」 「よかった。睡眠は何より大切だものね。成長にも美容にも、睡眠が一番なのよ」 美容という単語にマスターがピクリと反応したように見えたが、特に何も言わずにスルーした。 真美さんは自分もカウンターを回りこんで、僕の隣のスツールに腰掛けた。 「ひと晩ぐっすり寝て、少しは落ち着いたかしら。それで、これからどうするか、もう考えた?」 「いえ、まだ……。決めかねているというより、どうしたらいいのかわからなくて。途方に暮れていると言った方が、今の心境に近いです」 状況は何も変わっていない。 解決どころか微塵の改善もしておらず、僕は依然自分が誰だかわからないし、何をどうすればいいのかのヒントすら掴めないでいる。 「やっぱり、まず病院か警察に相談に行くのが順当なんじゃない? ねぇ?」 同意を求められたマスターは、目線はポットを見つめたままどこか心ここにあらずと言った風情で、「そうだな」と言った。
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