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「げほげほっ」
「はぁ……はぁ……大丈夫ですか」
その問いに、また必死にうなずく。その様子にまだ話せる状態ではないと察したのか、それ以上助けてくれた者は何も言わなかった。
だんだんと呼吸も落ち着いてきた頃、やっと彼女は自分の置かれた状況に気を置くことができた。
びちゃびちゃに濡れている全身、ぴったりと張り付く服は下は黒のラフなズボン、上はグレーのパーカーと淡い水色のシャツ。チラチラと視界に入る赤茶は、どうやら髪の毛のようだ。
視界をずらすと、こちらの様子を窺う若い男がいた。全身をびっしょりと濡らしているため、この男がどうやら溺れる自分を助けてくれたのだと気付く。
「ありがとう、ございました」
そう声をかけると、男はホッと息を漏らし、ふんわりと笑みを浮かべる。人の良さそうな笑みに、彼女は引きつりつつも笑みを返しておく。
男は、整った容姿を持っていた。日の光に照らされて輝く腰まで伸びた金髪、涼やかな目元、翡翠を思わせる緑色の瞳、笑みをかたどるピンク色の唇は薄く、日焼けとは無縁そうな白磁の肌。彼の周りには革靴と暗い茶色の布、大きなバッグが散乱しており、よほど慌てて放り出したのだとわかる。
深く息を吸い、吐き出す。ぴったりと張り付く服が気持ち悪い。どうしようか、と悩みながら辺りを見渡すと、どうやらここは木々に囲まれた湖があるだけのようだ。温かな気候と草花が咲いているところを見ると、季節的には春なのだろう。
パーカーの袖を引っ張り、ギュッと握るとぼたぼたと水が滴る。かなり水を含んでしまっているようだ。こうなると一度脱いで絞ったほうが早そうだ。
「それにしても、驚きました。ここで休憩していると、いきなりあなたが現れて湖に落ちたんですから。転移の座標を間違えてしまわれたんですか?」
「……え」
聞きなれない単語に、女は首をかしげる。その様子に、男も首をかしげる。
女はそこで初めて、何故湖で溺れたのか思い出そうとした。そして、気付いてしまう。
「……何も、わからない」
自分のことが、わからない。ぽっかりと穴が開いたみたいに、何も思い出せなかった。自分の名前でさえも。
「(嘘、でしょ……!?)」
目を見開き、固まる。どう頑張っても、何も思い出せない。記憶の始まりは、湖の中で溺れているところからだ。
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