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「どうかしましたか?」
男が心配そうにこちらを見ている。綺麗な緑色の瞳。こんな状況でなければ、きっと見惚れていただろう。
頭を抱える。湖で溺れる前、名前、顔、それらを順に思考を巡らせてみるけれど、何一つ思い出すことはなかった。ただ、一つだけ残っているモノ。それは、苦しくて悔しくて、そして情けなかった、あの胸が潰れるような後悔の気持ちのみ。
「何も……わからない」
「え? それって、記憶喪失ですか!?」
男は目を見開き驚く。驚きたいのは、女もだった。胸の膨らみなどから、体のラインは女性のもの。靴は履いておらず裸足で、チラチラと視界に入る髪の毛で百面相をしている男のように長いわけではないことが分かる。
湖に近寄る。波紋も無く、穏やかな水面は鏡のようになっていた。そこでようやく女は自分の顔を知る。
男のように整っているわけではないが、特別不細工というわけでもない。くりっとした二重の瞳、高くもなく低くもない鼻、たらこ唇というわけでもないが男のように薄いわけでもない唇、そんな特徴もなさそうな、だが少しだけ幼い顔をした自分の姿。
「(……これが、私?)」
なんだか信じられなかった。だが、水面に映る女は自分が笑えば笑う。疑いようもなく、これが己の顔なのだろう。
「あ、あの」
「え、と、なんですか……?」
男に声を掛けられ、おずおずと返事をする。顔を向ければ、声を掛けたはいいが何を言おうとしているのかわからない微妙な顔をしている男がいる。
女はおとなしく話すまで待つ。聞く体制をとられたため、男はもごもごと口を動かしたあと、意を決して言葉にした。
「僕と、一緒に来ませんか?」
それは、道中の誘いだった。
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