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散歩の途中、ふと着物姿の女性が目に止る。紺のかすりに緋色の襟。そして長い黒髪が何とも言えず艶っぽい。女は日傘を閉じ小さな町屋へと入って行った。誘われるように店の前へ立つと看板に「水琴窟」と書いてある。どうやら、ここは喫茶店のようだった。
店の中へ入ってみると、手前にいくつかの商品が並んでいた。
小さな巾着のような絹織物の袋・・・何だろうと、手に取ってみる。
「香り袋です」
さっきの女性が現れた。
「昔風の香水ですね。特に夏期、帯に挟んだり、懐に入れ使用するのです。衣類の防虫香ともなります。中身は、香木やエッセンスオイルを調合したものが入っています。この香り袋は、着物の端切れを利用して私が作っているんですよ」
そう言って彼女は商品を手に取ろうと少しかがむ
はらりと落ちた髪を耳にすくいあげるときふわりとした良い香が漂った。華やかで優しく、そして胸をくすぐるような何とも言えない香り。思わず目をつむり吸いこんだ。
「少し待っていてくださいね。」
そう言って女は奥に引っ込んだ。しばらくすると、手には新しい香り袋を持っていた。手渡されたそれを嗅ぐ。ああ、かぐわしい。あの人の香りだ。不意にあの人の記憶が蘇り胸に懐かしさがこみ上げる。
「忠さん・・・」
彼女と出会ったのは通勤バスの中だった。初夏、少し汗ばんだ髪の香りに胸をかき乱された。若かったのだろう。理性で止められるものでもなかった。絹のような手触りの髪。抱き寄せれば生の女の香りがした。そして6年も自分に尽くしてくれた女を捨てて、優しくもない料理もできない女と付き合い始めた。自分に抱かれ、そのまま安心したように眠り落ちる彼女が愛おしくて狂おしい。でも、彼女との関係は間違いだった。後半はいい事なんかまるでなくて喧嘩ばかりしていた。けれど髪がとても綺麗だった。
「ありがとうございました。」
財布の中にある、ありったけのお金を女主人に払ってしまった。
替わりに手の中にあるのは小さな香り袋。
「中身は秘密です」
女主人は、そう言って涼やかに笑った。
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