【一話 ずいきの涙】

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『水琴窟(すいきんくつ)の女主人』 【一話 ずいきの涙】 このところ岐阜の暑さは尋常ではない。気象庁が発表したデータによると今月11日、多治見市で39.3度を記録し、群馬県館林市を抜きこの夏の最高気温を記録した。珍しくこの地が全国版のニュースに上ったわけだが、郷土愛が強い岐阜県民にとってもこの事実はあまり歓迎されてはいようだった。 川原町にある瓦葺きの町並みは、江戸の佇まいを残し思わず中山道へタイムスリップしたように感じる。ぎらぎらと熱い日差しの下を歩いていたせいか、ともかくその時の僕は無性に喉が渇いていた。赤いポストが置いて店先から綺麗な和服姿の女性がひょいと顔を出し、袂(たもと)に手を添え店先を整えるとまた中へと入って行った。この時僕はまだ知る由(よし)もなかったが、それがこの小説の舞台、小さな町屋造りの喫茶「水琴窟(すいきんくつ)」であった。軒下には美濃提灯が僅かな風を受け揺れている。立てかけてある黒板には、こだわりの豆と手ごろな料金設定が示されている。これで喉が潤せる。少し涼んでいこうかな?けして先程の女性が気になったわけではないとひとりごちつくと僕は、思い切って古い格子戸を開ける。するりと足元を黒猫が抜けて行った。2間ほどの蹴上(けあ)がりにいくつかの古い商品が並んでいる。長い奥行の途中、坪庭があり手水鉢の辺りからキーンと澄んだ鈴のような音が響いた。水琴窟でもあるのかな?突きあたりまでいくと二階建ての蔵がありそこが喫茶室になっているいようだ。 「いらっしゃいませ」 紫陽花色の浴衣に長い黒髪を片側にまとめ美濃和紙の風車を挿している、抜けるように白い肌に赤い唇がひどく艶めかしい。彼女は黒塗りの机に、腰を落としながら氷の浮かんだ青の切子ガラスを置いた。僕が頼んだアイスコーヒーを淹れてもう間、ぶらぶらと店内を見て回る。置かれている商品は、どれも変った品ばかり。その中の一つに気になる物を見つけた。説明を見ると、「ずいきの涙」と書いてある。何だこれ?
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