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「まっすぐ家へ帰るんだよ、いい? なるべく人通りの多い、明るいところを選んで歩いて。日が高いうちに家へ着くんだよ、それからそれから……」
車窓から身を乗り出し、何か言い忘れてないかと思いを巡らせる彼の様子が嬉しくて、幸子は口を覆って笑った。
おかしいのに涙が出る。
一時でも離れてしまうのが哀しい。別れがたくて、辛くて。泣いてしまう。
――自分に、まだ人恋しくて切なくなる心が残っているとは思わなかった。受け止めてくれる人と出会えたことにも。
実家に返った彼からは日を空かず毎日手紙が届いた。多い日は一日に何通も。
「まあっ、達筆すぎて。すばらしいお手だこと」
公子小母はよく冷やかした。
実際、大きい字で、ぶるぶると揺れる線は小学生の書く字よりもへたくそだった。
「郵便屋さんも大変だわね。この字でも届けてくれて。でも、毎日同じ住所へ送って寄こすんですもの。しまいにはさっちゃんの名前だけで届くかもね」
手紙を受け取りながら、小母に向かってイーッと舌を出して、彼からの手紙を抱きしめた。
どれほどの時間を費やして書いてくれたのだろう。慣れない左手で綴る一文字一文字に込められた思いはどれもこれも温かい。
そして、日を追う事にも字は上達し、洗練されていった。
少しへたくそで、くせ字が残る程度にまで到達するのにさほど時間はかからなかった。公子もその頃には冷やかす言葉を失っていた。
彼の字だ。
学校で、板書やノートを取る時にたくさん見てきた幸宏の字だ。
字は、手ではなく心で書く。
ここまで書けるようになるまで、彼のことだ、どれ程歯がみしてくやしい思いをしたのだろう。
あの、人には決して見せない裏で努力をしている姿が目の前に浮かぶ。彼の苦悩や焦燥は彼女にも嫌というほど伝わってくる。夏休み前に実家にいる自分を不甲斐なく思っている。今頃は教壇に立っていたのに、と。
幸子も日を開けず彼への思いを飾らずに伝えて書き送った。
人生は少しぐらいの休止なら許してくれる。
大丈夫。あなたなら大丈夫。
きっと元の場所へ戻れるわ。
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