第1章

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 家中では手練れの一人だが、追っ手は十人だという。万に一つ不覚を取ることだってある。  伊予との国境まではあと十三里。紊一郎の足では白地(池田)辺りで日は暮れる。  今夜は白地泊まりとするか、とそんな思いを抱きながら、西へ西へと道をとった。川向こう高越山の上にどす黒い雨雲が垂れ込めていた。  一雨来そうだ。雨合羽を求めねば……。  足を猪尻(いじり)に向けた。ぐるりと見渡しても町家は猪尻辺りまでない。少し遠回りだが濡れ鼠になるのは避けたい。  風邪っぴきの道中ほど辛いものはない。(猪尻の浅葱侍か)胸の内で呟きつつ足を速めた。  何処の世界にも差別はある。武家の社会も世間と同じだ。いやそれ以上かもしれない。 『浅葱侍』と一段下に見られている猪尻武士もその類いである。加賀見紊一郎は藩主直系の家臣だが『浅葱侍』は陪臣である。  彼らの主は洲本城代家老稲田家で、猪尻はその知行地である。豊臣秀吉の譜代であった蜂須賀家政が、秀吉の四国征伐の先鋒をつとめ、その功で阿波一国を拝領した。天正十三年のことだ。  家政は阿波西方の抑えとして、稲田九郎兵衛稙元(たねもと)を据えた。もともと家祖蜂須賀正勝とは主従関係にはなく、正勝に請われての食客であった。  稲田家臣にすれば浅葱侍などと蔑まれ、酷寒にも足袋さえ履けぬ差別を受けるいわれはない。その足袋の色まで浅黄色と決められていた。  それでも文久三年頃(二百八十年間)まではそれなりの関係を保っていた。それが崩れたのは稲田邦稙が尊皇攘夷に傾斜し、蜂須賀斉裕が佐幕派に与したからである。  このあと最後の切腹事件として知られる庚午事変(稲田騒動・分藩独立運動・明治三年)へと突き進んで行く。  新政府とくに岩倉具視を巻き込んだこの騒動は、中央集権国家を目ざす新政府の方針に激しく水を差すもので、結果は首謀者とされる新居与一助(水竹)ほか九人の斬罪、二十六人の終身刑。三十二人が禁固三年、四十四人が謹慎となった。  本藩過激派が洲本城下を急襲し、稲田方では三宅達太郎他一名が自殺。戦闘による即死が藤本儀三郎他十四名、この中には二人の女性も含まれている。  深手を負ったのは田村政太郎他五名、焼き払われた屋敷は城代家老稲田九郎兵衛宇山邸や、藩校益習館を含めて十四邸を数えた。浅手の者十四名を加えると、稲田家の被害は甚大であった。
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