第1章

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「そうか、坊が加賀見成助の倅か」    愛しげに紊一郎を見た、木崎盛貞の目をみたいまも忘れていない。 「気が向けば道場へおいで、読み書きも習わねばのう」  それがきっかけで木崎道場に出入りした。学問もびっしりと叩き込まれた。十四歳のときには盛貞をしのぐほどなっていた。十五歳で元服ののち目付見習いとして城に上がった。いまは大目付の片腕と目されている。  ──これまでに倍して気丈にならねばならない。父が歩んだ轍だけは踏んではならない。妻子に嘆きを味わわせてはならない……。  思えば目付になって以来、ことさらに危ない橋を渡ってきた。これとて落ちそうになる弱気の淵から這い出すためであり、首をもたげる優しさをねじ伏せるためであった。  誰だって好んで人を斬るものか。許されるなら、あの血の臭いなど嗅ぎたくもない。息を殺してでもやり過ごしたいのだ。  道後の湯宿は混んでいた。武士も町人百姓も同じ浴槽に浸っている。見分けるのは髷だけである。  志太郎は番台で手拭いを三枚買ってきた。糠袋も一個求めてきた。一人ずつ順番に入ろうというのだ。最後に紊一郎が湯に浸かった。  およそ二十人ほどの客が湯舟に浸かり、洗い場には十人ほどの客がいた。武家髷を結った初老の武士が、ところ憚ることなく大の字に寝そべり、軽い鼾をかいていた。  その横では商人らしい老人が、これまた横向きに寝て、同業らしい男が湯桶に汲んだ湯を、一物にせっせと掛けていた。薬効でもあるのであろうか。  三人連れの若者は、これから行くのか水茶屋女の品定めに余念がなく、股間を眺め合いながら意味もなく笑い会っていた。それぞれ日暮れ前のひとときを愉しんでいる。  湯宿を出た紊一郎ら三人は、旅籠筋を抜けて、近くの小高い丘に建つ神社への石段を登った。  刺客が追って来るか確かめるためだった。  見張られていたのは紊一郎たちであった。刺客の感が紊一郎らより冴えていたようにみえる。だが、三人が思わせ振りに屋敷を出て、道後の湯だと見極めたところで、裏山の神社へ誘き寄せるであろうと察するように仕向けたのである。奴らはまんまと罠に掛かった。  それにしてもこの石段の勾配は急であった。三人は息が上がるのを防ぎながら、ゆっくりと登った。  幅一間ほどの石段である。三人は縦一列それも三段空きに登った。登りつめるほどに 上からの殺気が下りて来た。
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