第1章

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   川を上がり下りする荷船の荷駄から通行税を取るための関所で、そこから上がる日銭は莫大なものがある。  勘定奉行直轄の徴税所である。男の声は勘定奉行西林家の用人、大柳信三郎の声に間違いはない。  男の脳裡におぼろげながら、ある構図が見え隠れしていた。  忘れもしない文政二年の秋であった。その日は前日から夏の暑さがぶり返し、寝苦しいまま朝を迎えた寅の刻(午前四時)過ぎだった。  裏の井戸端で水を浴びていたときである。外はまだ明け切っておらず、裏の助任川には朝靄が低く垂れていた。  門を叩いた声は大目付兵藤圭助の小者源蔵であった。 「直ぐ役宅までお越し願います」  源蔵の声は切羽詰まっていた。「変事」かと衣服を着けるのももどかしく役宅へ向かった。大目付の役宅までは五町(約五〇〇㍍)足らずだ。 「海堂保之介が、並川平七を斬った」  大目付兵藤圭助が組んでいた腕を解いて、静かに言った。  海堂保之介も並川平七も、ともに勘定奉行所勤めである。並川平七が組頭、海堂保之介はその直属の部下である。   「公金横領が発覚した。首謀者は並川平七だ。奉行も同じ穴の狢(むじな)だな。  突き止めたのが海堂だ。露見を怖れた並川が海堂をおびきだし暗殺を謀った。ところが海堂の腕が達者だったようだ。並川の手下二人が暫死した。  ところが、当の海堂がそのまま逐電しおった。奉行はもとより上の筋まで絡んでおるようじゃ。……それで身の危険を悟った海堂はひとまず隠れたと思われる。  通年にわたり旱魃風水害で藩財政は逼迫しているというのにじゃ。上層部のたるみは目に余るものがある。由々しきことだ。それにしても海堂の執念たるや凄まじい。よくぞあそこまで探索したものよ。  ただ、岩津五分一所に関わる資料だけが、探索途中と見えて不十分だ。ここにある資料から判断するに、岩津五分一所では番屋ぐるみで横領に関わっていると思われる」 「海堂保之介はなぜ出奔したのでしょう?」   「ここに海堂がわしに宛てた走り書きがある。保之介は近々謀殺の怖れありとみて、妻子を隣国へ出国させている。四国八十八ヶ所参りだ。嫡男信一郎の病弱快癒が表向きの理由だ。  保之介は全てをわしに託して国を出た。行き先はおそらく伊予であろう。事件が解決すれば帰国すると書いてある。そこでだ、お主に海堂の後を追って貰いたいのだ」    
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