第1章

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「源蔵によると勘定奉行西林敬太郎は、息のかかった配下の者十人ほどを繰り出し、保之介を仕留めるべく討手を放った。今朝、夜明け前に城下を出たらしい」  この時刻なら、すでに鮎喰川を越え、鴨島辺りまでは行っていると思われる。 「何としても海堂を守らねばならん。そこでお主の出番というわけだ。ここに五十両ある、必要なものは道中で求めればいい。もし、討っ手の連中が立ち塞がれば斬り捨てても良い。お主なら一人で充分であろう」 「海堂の立ち回り先の心当たりは?」 「伊予松山に父御の兄がおいでだ。八百石どりの上士だ。まずその豊瀬家を訪ねるはずだ」 「承知しました。直ぐ追います」 「頼むぞ、奴らに討たせてはならん。すぐ後から助勢の手配はつけておく」  大目付は「お主一人で大丈夫だろう」と言った。その言葉がまだ耳朶に残っているうちに、助勢を送るというのはどういうことだ。  大目付宅を出たのが卯の刻明け六つ(御前六時)であった。  伊予の国松山へは本街道が二つある。吉野川北岸阿讃山麓沿いにたどる川北本道と、城下外れの鮎喰川を渡り、西に向かい瀬詰め州津を抜け、佐野(池田)番所までの吉野川南岸路、いわゆる伊予街道である。  二つの街道は国境の佐野番所まで、およそ二十余里だ。  男いや、加賀見紊(びん)一郎は南岸路をとった。大目付配下で徒目付三百石取りである。藩主とも御目文字が許された家格だ。  加賀見の足は速い。『猿(ましら)の加賀見』と異名があり、わっぱの頃より眉山茂助が原で駆け回っていた名残りだ。  噂では彼の口笛一つで野猿が集まり、狐野ウサギまで従えて山野を駆けていたという伝説を持つ男である。  剣は鏡新明智流の遣い手で、家中のもので一本取った者はまだいない。木刀竹刀が彼の体に触れたことがないという強者である。  紊一郎が岩津の渡しに着いたのは、夕日が西山に沈んだ午後七時過ぎだった。およそ八十㎞を十三時間ほどで辿りついたことになる。常人の足なら十刻は掛かるであろう。  この岩津の渡しは川湊で、吉野川に二十三ある川湊の内で屈指の良湊であった。何しろ淵が深く両岸から張り出した岩礁で、川幅およそ一町半 (約百五十㍍)と狭く、渡し場にはうって付けであった。  藩庁はここに桟橋を張り出し、五分一所を置いた。積み荷から口銭を取るためである。例えば鹿皮一枚口銭三分九厘、米一石口銭二分五厘とかである。  
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