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◇ ◇ ◇
幸子の郷里は本州の中頃にある。
夏は盆地で暑く、冬は逆に底冷えする。
埃っぽい道を小石に時々足を取られながら帰り着いた実家は、戦前飛び出した頃と変わりなかった。
よくぞ無事で、戸感慨深い思いに一瞬浸った。
表札は『野原』とある。
古びた木の墨跡は昔のままだ。
家を囲む垣根だけは新しい。戦後、建て直したか、戦時中、燃料にしてくべたのかもしれない。他の人に使われたのかもしれない。
ぴたりと閉まった玄関は、とても高く遠く感じられる。
今日まで家からはとうとう否とも応とも連絡は無かった。
頼りなきは良き便りと言う。自分に都合良く解釈して、幸子は思いっきり引き戸を開けた。鍵はかかっていなかった。
出迎えのない、広々とした三和土に立ち、ひと声上げた。
「ただいま帰りました」
応えはない。
歓迎されるなどと思ってはいない、一旦外へ出て裏へ回り、勝手口から入り直した。
「ただいま」
いつもは誰かしらいるはずの台所も、もぬけの殻だった。
どうしよう。
家の中に上がったものか迷ったのは一瞬だった。
「誰だ」と誰何されたから。
父の声だ。――少し老けた、父の、枯れた声。
「幸子です。先日電報を出した……」
「何しに来た」
予想した通りの反応だった。
心の底が冷えそうになる。逃げ出したい、今すぐ東京へ戻りたい。
と同時に、彼女を呼ぶ、もうひとつの声が彼女のうちに語りかける、『さっちゃん』と。
武の家の人々、笑顔で迎え入れてくれた近所の人たちの顔も浮かんだ。
幸宏の手が彼女を支えるている、僕がいる、守る、と。
私、あなたをここに呼びたいの!
「戻ってきました」
「ここはお前の家ではない」
「いいえ、私が生まれ育った家です」
「勝手に出て行った人間が都合良く何を言う」
「お詫びのしようもありません、でも謝りません」
顔を見せない父は無言だった。
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