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「好きな人ができました。私の過去も含めて受け入れてくれると言ってくれる人です。彼に会って下さい。彼も……彼の実家の方もくれぐれもよろしくと言っていました……お父さん」
幸子は言葉を切った。
家人が、父だけであるはずがない。けれど無言で、しんとした屋内は他に人の気配が出る余地なく、とてつもなく広く感じられた。
無言が怖い。幸子は続けた。
「父さんに、武の皆さんからも……」
「黙りなさい」父は話の腰を折る。
「武だか誰かは知らないが、どこの馬のホネかもわからない奴と会う義理はない」
遠くから、障子がぴしゃりと閉まる音がした。
はあ、とひとつ、大きなため息が出る。強張った身体からは力が抜けてその場にへたり込んでしまいそうだ。
父の反応は想像していた通りだった。出て行けと言われないだけまし。話を少しできただけでもいいんじゃない?
自分を励ました。
でも……。
二度目の大きなため息が出た時だった。
かたり、と台所の向こうから掛け金を外す音がして、母が顔を出したのは。
「無事だったのね」と言って手を伸ばす母の手にも顔にも髪にも、年齢以上の齢を伝える跡があった。
何年帰ってなかったんだろう、音信不通のままであったことだろう。
増沢の小父任せで、自分から消息を伝えず不義理をした。
「ごめんなさい、今まで……」
母は首を横に振り、娘の次の言葉を受け止める。
「お帰り」
幾万の言い訳を全て無かったことにしてくれる歓待の言葉だ。
ただいま、と返したくてもなかなか口にできなかった。
代わりに母子の嗚咽だけが台所を長く満たしていった。
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