5人が本棚に入れています
本棚に追加
◇ ◇ ◇
夕食でも父と顔を合わせることもなく、母とふたりで台所で食事をとった。
懐かしい味だった。
これが我が家の味。しっかり覚えておくわ。
「香の物の漬け方……教えてほしい」
「あなたもぬか漬けを教わりたいと思うようになったのかい。どういう心境の変化? 先の結婚の時は一言も言い出さなかっただろう」
「そう……だった?」
「ええ。こんなことでやっていけるのかと心配になるくらい」
「そうだった……かな」
もう思い出せない、10年も20年も前の話のような気がする。
けど、大学に在学していた時間だって、ごくわずかな時だったけれど、私は幸宏に出会った。いろいろな人と関わった。
「そうそう」
母は立ち上がり、水屋から1枚の葉書を出す。
「幸子に。今日届いていたよ」
「私――に?」
差出人名を見て驚いた。
幸宏だ。
誰に読まれても心配の無い、ごくあっさりとした文章だった。旅の無事を祈る彼の気持ちが嬉しく、胸に響く。
「父さんはこの葉書のこと知ってるの」
「知らんぷりしていたけど、多分ね、気付いてるね」
「読んだかしら」
「盗み読みするようなことしたがらない人だけど、案外、目を通していると思うよ。誰なんだい? 男性だろう? 聞いたことがない名前だけど。増沢さんから以前話があった、大学の先生から紹介があった人なのかい」
「うん、そう。同じ教室で同じ先生から教わってたわ」
「相当優秀で、家柄も申し分ないと聞いているけど、帝大の医学部にいたって?」
「代々お医者様をつとめていた家なの。本人は医学部を中退してしまったけど」
「あら、もったいない。お医者さんにならなかったの。じゃ、今は何をしてるんだい。白鳳に入るくらいだからバカじゃないだろうけど。サラリーマンにでもなるつもりかね」
最初のコメントを投稿しよう!