追憶

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 しばらく部屋にこもっていた円がようやく出てきたのは、八月の登校日になってから。  正直心の準備が万全とは言えなかったが、単なる兄としての一歩を踏み出すため、円を良子さんのお見舞いに誘う。  一瞬渋られた気もしたが、二人で出掛ける約束を取り付けると、やはり嬉しい。もちろん、行くのは楽しいところではないわけだが。  しかし、放課後良子さんの病院に向かう途中、円はずっと上の空だった。 「やっぱりやめておく?」  そして――円を気遣ったつもりだった、俺の一言から口論になってしまう。  円は怒って、帰ると言った。帰りのバス停へと歩いて行く円は、信号が赤になっているのに気づいていない。 「――円!」  精一杯叫んだけれど、彼女には届かない。間に合わない、そう思ったら身体が勝手に動いた。  次に気づいた時には、地面に倒れていた。傍らに広がる赤い色が視界をかすめ、円が泣きながら、感覚の薄い俺の手を握りしめているような気がする。  漠然と、自分が死ぬのだと思った。  様々な後悔が一瞬だけ頭をよぎったけれど、円を守って死ねるのなら……うん。悪くない。  これで許されるとは思わないけれど、少しは償えただろうか。 「いやだよ……死ぬみたいなこと、言わないで」  薄れ行く意識の中、円に惜しまれて死ねる。それだけで嬉しかったのに。 「恨んでないよ……もう、いいよ。全部許すから、だから、お願い」 「ねえ、好きなの。ずっと言えなかったけど……私、比呂くんのことが好き」  夢みたいな言葉。最期に俺を喜ばせるための、嘘でも嬉しい。  悔しいなぁ。俺はもう、夢か現実か確かめることもできない。  だからせめて、泣かないで。笑って、円。  ずっと君の笑顔が見たかった。君に笑って欲しかったんだ。  やっと叶った。だけどもう、涙でそれも見えないや。馬鹿だな。最初から最後まで。  さよなら、円。君への想いは、ここに置いていく。もう、思い残すことも無くなった。  ――だけど。  もしも、もし、許されるならば――……
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