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「大丈夫!? 気分悪い?」
私を我に返したのは、隣の男子トイレから出てきた比呂くんの慌てた声だった。
「だ……大丈夫」
急いで頭の中を切り替えて、なんとか弱々しくも微笑んでみせる。
「本当に? 真っ青だけど」
「貧血……かな? もう大丈夫」
依然心配そうな比呂くんを安心させるため、私は立ち上がって服のホコリをはらった。
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
「本当だよ。俺、トイレで何か見たのかと思った」
まさかと思う。比呂くんは男子トイレから出てきた。彼はもしかして、何かを見たのだろうか。
「何か……って?」
激しい鼓動を刻む心臓を気取られぬよう、努めて冷静に言う。
「何って、トイレだし……幽霊とか?」
しかし私の緊張とは裏腹に、比呂くんは真面目な顔でそう答えた。
拍子抜けしてしまった私は、思わず笑ってしまう。
「……幽霊って、トイレの花子さん? あはは……そんなの信じてるの?」
「まさか」
「信じてしまったら、怖いからだったりして?」
「それはそっちだろ?」
茶化して言った私に、比呂くんもクスッと笑みを漏らした。
少しだけ心が軽くなる。比呂くんがここにいてくれて、良かった。
この様子なら、彼は何も見なかったのだ。
私は心の底から安堵した。
数時間後、予約したホテルで家族四人の食事会。
あの後、なに食わぬ顔で戻ってきた母は、今も私の隣に座っている。
「そう言えば、来週から学校が始まるが……比呂、宿題は終わってるのか?」
会話の途中、有坂さんの一言で不意に話題が移る。
「ああ、終わってるよ」
比呂くんはサラリと答えた。すかさず母が言う。
「あら、ちゃんとしてるのね。円(まどか)はどうなの?」
「……もう少し」
「あんたまたそんなこと言って、少しは比呂くんを見習いなさい。春休みももう終わるのよ」
「……分かってるってば。大丈夫」
私は余裕だとばかりに言い切ったが、実はまだ手をつけてすらいなかった。
――どうしよう。忘れてた。
内心の焦りを誤魔化すように、私は味のしない料理を食べることに没頭した。
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