第1章

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【さとし。】 大学3年生から田舎のバーでアルバイトをしている。そこでは多種多様な人間によって常軌を逸した面白トークが繰り広げられており、ネタに尽きる事はない。 ある日、タコポンという20代後半のお客がこんな話をしていた。 「毎年お正月は家で親族が一同勢ぞろいするんだけど、今年は数年ぶりに従兄弟のさとしを見たよー。 さとしは働かずに家に引きこもってたみたいなんだけど、空気読めない叔父が“さとしは、夢ねぇんか?”なんて唐突に聞いちゃってさ。 しかもさとしも立ち上がって”ぼ、ぼ、僕は声優になっなりたいんだ”って叫ぶんだぜ。もう場がしらけたよ。」 ヤニに染まる歯をむき出したのを合図に、店内では笑いが巻き起こる。 私は表向きで笑顔を取り繕いながら、内心ではさとしがニートから夢を持つ少年へと進化した事に感動を覚えた。良い話ではないか。 そして ”Never give up! 少年よ、大志を抱け!” と脳内にストックされている精一杯の名言をまだ見ぬ彼にエアー送信した。 そんなお節介をしたせいか、 さとしに対して母性を抱く事となる。 帰りの電車でも次の日の晩飯、さらには大学の授業の最中でさえ、さとしが離れない。 ZARDの『負けないで』を聞いた後のように、無限にさとしがリピートしてくるのだ。 》 当然授業の内容は全く頭に入らず、相手が話している内容にさえ集中できない 。 もうこれは一種の病気である。SATOSHIウィルスは、私の心と体を真髄から蝕み苦痛を与え続けた。 一ヶ月後、タコポンは赤らめた?と酒の匂いを連れて店にやってきた。 待ちに待った瞬間。私は席に着くや否や、彼はどうなったのか、と聞いた。 「さとし?そういえば、一週間前に会ったよ。 夢はどうだ?って聞いたら、”普通の社会人になりたいです”って言ってた。」 予想外の展開だった。 夢に向かおうと決意を固めた少年が、たったの数ヶ月間で方向転換。 現実を直視したのかはさて知らぬが堅実に社会で働く事を志すようになっていた。 「就職先決まったら、お店に連れてきてよ。祝ってあげるから。」 私は山崎ロックをカウンターに差し出した。 一度萌芽した母性は、溶ける氷と相反し肥大化していく一方だ。
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