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結婚して間もなく、幸子はうなされる夜が増えた。
何度も幸宏に起こされて唖然とする。何があったの、と髪を撫でられても理由など幸子にもわからない。
遠くでキャンキャンと子犬が鳴いている声がする。いや、気のせいかもしれない、でも声は彼女の元に届いている。
犬は――今でもやっぱり苦手だ。
小さな生き物に罪はない。彼女の心が犬を寄せ付けない。
男は嫌だと言い続け、軽蔑さえしていたのに、今では夫がいる身。人は乗り越えられない試練は与えられないと言う。男性不信に凝り固まっていた心を解きほぐしたのは幸宏の存在だった。
男の愛を信じられる相手と会えた私は幸せ。なら。犬はどうなの?
やっぱり苦手だ。変わらず避けてしまう。
どうか私を見ないで。
こっち来ないで。
そんなに人なつこそうな目をしてはだめ。
コロを思い出す。
もうあの子は帰ってこないんだもの。
ひとり、家で家事を片付けている時、彼と出かけている時、機嫌良く過ごしているのに、犬の鳴き声がすると身構えてしまう。その晩は決まってうなされた。
「何が君を縛っているんだろう」
寝汗でびっしょり濡れた額をかき分け、撫でながら幸宏はあやす。
「こわい思いをたくさんしてきたんだろうね、少しずつ思い出しているんだ」
「ごめんなさい」
幸子はつぶやく。
声には涙すら混ざる。
私たちは死線をいくつも乗り越えてきた、地獄を見た人も日本中至る所にいる。
「情けないわ、子供みたいで」
「いいじゃないか、子供で。これまでもうなされたことはあった?」
戦争が終わってからはまったくない。
首を横に振り、あなたと暮らすようになってから急に増えたのだと訴えると、幸宏はうんうんとうなずく。
「君にとって、結婚は不幸な出来事だった。けど、今は? 過去と現在の違いに心が追い付いていないんだ。今まで――がんばってきたんだよ、さっちゃんは」
よく耐えてきたね、とさらに彼は頭を撫でた。
あの子も、撫でられるのが好きだった。
鼻をくうくう鳴らして、目を細めて、とろけそうな顔をしてた。
何故コロのことばかり思い出すんだろう。
幸子はまだ、夫に小さい犬のことを話せていない。
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