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18. 見送りはいいから
ジジジジジジ——。
耳にへばりつく蝉の鳴き声がさらに暑さを増している気がする。冷房の効きすぎた図書館から出たときこそほっとしたが、すぐに汗がにじんで不快になった。すべてを焼き尽くすような真夏の強烈な陽射しに、強烈な照り返し。悠人自身はともかくとして色白の美咲が心配になる。
歩みを止めることなくちらりと隣に目を向ける。半袖からすらりと伸びる腕は、まばゆいくらい白く、折れそうなくらい細い。見るだけで直射日光を当ててはいけない気にさせられる。とはいえ、日傘を持たない悠人にはどうしてやることもできない。
ふと、いつもより赤みがかった小さなくちびるから吐息がもれる。首筋は生白いままだが、やわらかそうな頬はほんのりと上気して薄く汗ばんでいた。それが妙に艶めかしく感じる。息を詰めて横目でじっと見つめていると、彼女は何かを思い出したように「あっ」と足を止めた。
「どうした?」
「うん……来週も再来週も来られないから、返却期限が過ぎちゃうなって」
そう言い、きまり悪そうにおずおずと振り向く。
総合図書館で借りた本の返却期限は二週間だが、美咲は来週から二週間ほど小笠原へ行くのだ。帰ってきてからでは間に合わない。そのことにいま初めて気付いたようだ。天才的な頭脳を持っているはずなのに、日常生活にはあまり活かされていない。だからこそ天才だと気付かれずにいられるのだろうが。
「読めるところまで読んで置いていけばいい。僕が延長してくるから」
「いいの? 夏休みなんでしょう?」
講義がないため、わざわざこのためだけに大学に来なければならないが、毎日ならともかく一度だけであればたいした労力でもない。
「当分はひとりで暇だからな」
「……ありがとう」
彼女はぎこちなく笑みを浮かべてそう言うと、目を伏せた。
「旅行のこと、本当にごめんなさい」
その言葉で、悠人はようやく自身の失言に気が付いた。非難したつもりも当てつけのつもりもない。ただ事実を何気なく口にしただけであるが、配慮が足りなかったかもしれない。
「美咲のせいじゃないから気にするな。前にも言っただろう」
「でも、お兄ちゃんと仲がいいのに行けないなんて……」
申し訳なさそうにそんなことを言う美咲を見て、悠人は溜息をついた。
「仲がいいかどうかは微妙だな」
「どうして? お兄ちゃんは悠人さんのこと、すごく好きだと思うけど」
——は?
思いもよらない発言に虚をつかれて凍りつく。からかっているわけではなさそうだが、なぜそう思ったのかはさっぱりわからない。
「あいつがそう言ったわけじゃないんだろう?」
「うん……でも悠人さんといるとき、お兄ちゃんすごく楽しそうにしているから。私なんか入り込めないくらい二人の世界って感じで、いつもうらやましいなって思っていたの」
ますますわからない。
確かに悠人をからかうときはいつも楽しそうにしているが、好きというには語弊がある。あくまで飼い犬かおもちゃのようなものなのだ。二人の世界など、いったい何を見たらそうなるのかと問い詰めたくなる。
「僕には美咲といるときの方が楽しそうに見えるけどな」
「そうだったら嬉しいんだけど……今だけでも……」
美咲は消え入るようにそう言うと控えめに微笑んだ。おそらく大地の婚約話を気にしているのだろう。いつか結婚して構われなくなると思い込んでいる。だから——。
「美咲……最近、大地の前で無理してないか?」
小笠原旅行が決まったあの日までは、大地も心配するほど不安を露わにしていたのに、それ以降は元気よく溌剌と振る舞うようになっていた。おとなしい美咲にしては不自然なくらいに。それも大地と一緒にいるときだけ。悠人の目には、元気で明るい理想の妹を演じているようにしか見えない。
「無理はしてないけど……」
彼女は言いよどんだが、迷いをにじませて逡巡すると静かに言葉を継ぐ。
「お兄ちゃんがこんなに構ってくれるのも、あとすこしかもしれないから……お兄ちゃんの中でいい思い出になりたい、笑顔を覚えていてほしいって思ってるだけ」
寂しさもつらさも押し隠して明るく笑っているなど、無理をしているとしか言いようがない。まだ子供なのだ。気持ちをすべてぶつけて泣きすがってしまえばいい。それができなければ不安そうな顔をしていればいい。悠人と二人きりのときのように自然に振る舞えばいい。
自分なら、こんな無理はさせないのに——。
何も気付かず元気になってよかったなどと言っている大地に、彼女を大切にできるはずがない。彼女を幸せにできるはずがない。昂ぶる感情を抑えるように体の横でこぶしを握りしめる。
「美咲、大地のことは好きか?」
「うん、お兄ちゃんときょうだいになれてすごく幸せ」
まだ兄としか見ていないことに安堵する一方で、心配にもなる。
二週間の旅行のあいだに、大地がどれだけ親密になろうとしているかわからないが、美咲を怯えさせることになりはしないだろうか。いや、いっそのこと今のうちに信頼が崩れてしまえば——。
無言のまま憚りもせず小さな手を引いて歩き出す。夏季休業中で閑散としているとはいえ、大学構内でこんなことをすべきでないのに。彼女も同じように思っているのだろう。つないだ手から戸惑いが伝わってきたが、それでも何も言わずついてきた。
「前に言ったとおり、僕は美咲の味方だ。覚えておいてくれ」
「うん……?」
前を向いたまま足を止めることなく告げる悠人に、彼女は不思議そうに曖昧な返事をする。けれど、しばらくするとつないだ手にそっと力がこめられた。振り返る勇気がなくて表情は窺えなかったが、それを答えと受け取っていいのだろうか。
火照った全身からじわじわと汗がにじんできた。美咲の手もだいぶ熱を帯びているように感じる。炎天下で立ち話をしてしまったことを後悔しながら、駅を目指してこころもち早足で歩を進めた。
「じゃあ、そろそろ行くかな」
大地はそう言うと腰掛けていたベッドから立ち上がり、足元のスポーツバッグを肩に掛ける。二週間の旅行にしては少ない荷物だ。並んで座っていた悠人もベッドから立ち上がった。
「そんな泣きそうな顔するなよ」
「していない」
ムッとして言い返すと、彼はおかしそうにくすりと笑った。
「帰ったら、二日間おまえにつきあってやるからな」
「……ああ」
最初にこの話が出て以来まったく話題にならなかったので、からかわれたのではないか、忘れられたのではないかと気を揉んでいたが、どうやら本気のようだとわかりひそかに安堵する。
「何をするかもう決めたのか?」
「いや、まだ……」
「あいかわらず優柔不断だな」
優柔不断というか、これというものが思い浮かばなかったのである。特に何をしたいというのはない。極端な話、二人きりでいられるだけでいいのだが、さすがにそんな恥ずかしいことは言えないし、大地につまらないと思われてしまうのも嫌だ。
「二週間ゆっくり考えろよ。たいていのことにはつきあってやるからさ」
彼はふいにくるりと身を翻して悠人の正面に立った。そのまま唇に笑みを浮かべると、挑発的に瞳を見つめながら大胆に間合いを詰めてくる。肩に掛けたスポーツバッグが悠人に当たってもお構いなしに。
「だから遠慮するなよ」
そう至近距離で囁かれ、全身にゾクリと痺れが駆け抜けていった。
近い。ちょっと首を伸ばすだけで鼻先が触れてしまう距離だ。早く離れてくれ、と無表情を保ったまま必死に願うが、彼はどういうわけか動こうとしない。まるで時間が止まったように感じる中、心臓だけがバクバクと激しく暴れ、全身が熱くなっていく。
トントン——。
扉がノックされ、悠人は金縛りが解けたようにビクリとする。
「お兄ちゃん、まだ?」
「ああ、いま行くよ」
大地は扉の向こうから聞こえた可愛らしい声に返事をし、悠人を一瞥した。
「じゃあな、見送りはいいから」
「いや……」
「そんな赤い顔して出てくるなよ」
いたずらっぽくそう言い置くと、背を向けてひらひらと右手を振りながら部屋を出ていった。扉を閉めたその向こうで、美咲と楽しげに言葉を交わしながら遠ざかっていくのが聞こえる。
からかわれただけだと、わかっているのに——。
よろめきながら崩れるようにベッドに腰を下ろすと、ぼんやりと横向きに倒れ込む。火照った頬にシーツの冷たさが心地いい。気のせいか大地の匂いがするようで、誰もいないのをいいことに顔を埋めて息を吸い込んだ。
翌日。
悠人は区立図書館でいくつか文庫本を借りてきて、橘の家で読んでいた。中庭に面した部屋のいつもの席で。向かいに大地はいないが、そもそもひとりでいることが多いので慣れている。いまのところ特に寂しいとは感じていない。会えない日が続くとどうなるかわからないが——。
「悠人さん、ちょっといいかしら」
「はい」
大地の母親である瑞穂が、微笑を浮かべながら優雅な所作で部屋に入ってきた。大地がいつも座っている席、すなわち悠人の正面に腰を下ろす。外出していたのか、これからするのか、華やかで品のいいベージュのアンサンブルスーツを身につけている。いまだに二十代後半でも通用しそうな若さだ。
「今朝、大地と美咲から電話があったの。まだ船の上だけど、ふたりとも楽しそうにしていたわ」
「そうですか」
瑞穂に他意はないだろうが、その報告には複雑な思いを抱かずにはいられない。つい硬い表情でそっけない物言いをしてしまった。閉じた文庫本の上にのせた手を無意識に握りしめる。
「ごめんなさいね、ひとりお留守番をさせてしまって」
「いえ……」
どうやらこの旅行に不満があることを悟られてしまったようだ。同情的なまなざしを向けられて居たたまれず目を伏せる。しかし、考えてみれば彼女と二人きりになる機会などめったにない。徐々に固くなるこぶしを見つめながら疑問を口にする。
「どうして二人きりの旅行を許可したんですか?」
「大地はもう成人だし問題はないでしょう」
そうではなく大地が美咲に手を出さないか心配ではないのか。悠人はそう尋ねたかったのだが、さすがに彼の母親に対してそんな直接的な物言いはしづらい。どうしようかと奥歯を噛みしめて眉を寄せていると、瑞穂はくすりと笑った。
「あの子は狡猾よ。悠人さんは身をもって知っているのではなくて?」
言わんとすることが掴めず怪訝な顔をした悠人に、彼女は丁寧に説明する。
「結婚に関しては美咲の気持ちを優先すると伝えてあるから、絶対にしくじれない。感情に身を任せるようなことはしないし、現段階で無謀な賭けに出ることもない。時間はまだ十分にあるんだもの。あせらずじっくりと計画を遂行していくでしょうね。今回の旅行もその計画の一部ではあるんでしょうけど、悠人さんが心配するようなことは起こらないわ」
さすがに母親だけあって大地のことをよく理解している。反論の余地はない。それでもモヤモヤした気持ちは払拭されないままだ。もし二人が兄妹の枠を超えて親密になってしまったら——悠人は唾を飲み、自分の手元に視線を落として尋ねる。
「瑞穂さんは、二人の結婚を望んでいるのですか?」
「そうね……あの子は一度執着したものは決してあきらめないから、自然にそうなってくれれば丸くおさまるわね。それが最も平和的な着地点よ。もし美咲が拒んだらって考えると……すこし怖いわ」
彼女は曖昧に微笑んで肩をすくめた。
美咲が拒んだときの大地を想像すると確かに怖い。剛三にあきらめろと命じられても素直に従わない気がする。勘当されても美咲を追いかけるかもしれない。彼女を守るつもりでいるが、守りきれるのかますます不安になってきた。
そのことを考えると、美咲が喜んで受け入れる展開がやはり理想なのだろう。二人の母親として瑞穂がそう願う気持ちは理解できる。平和的にみんなが幸せになり誰も傷つかないのだ。ただひとり悠人を除いては。もっともひた隠しにしてきた気持ちなど誰も知るはずはないが。
ひとり思考をめぐらせていると、瑞穂がテーブルに両腕を置いて悠人を覗き込み、にっこりときれいに笑いかけてきた。
「ね、寂しいものどうし今度デートしない? おいしいものでも食べましょう」
「……はい」
一瞬、思いもよらない誘いに目を瞬かせたものの、悠人を元気づけようとしてくれているのだとわかり、かすかに表情を緩めて首肯した。気遣われたことをすこし気恥ずかしく感じるが、同時に嬉しくも感じている。
瑞穂はくすっと笑い、流れるような所作で立ち上がった。
「今日は予定があるから失礼するわね」
「ありがとうございました」
悠人が椅子に座ったまま一礼すると、彼女はひらひらと手を振って部屋をあとにする。砕けた仕草でも身のこなしが美しく感じるのは大地と同じだ。去りゆく姿を眺めながらぼんやりとそんなことを思った。
もう小笠原に着いているころだろうか——。
中庭に降りそそぐ日射しがやわらかくなってきた夕方、読書を中断してふとそんなことを考えた。二人に思いを馳せるとすこし寂しくなる。すっかりぬるくなった残りの紅茶を一気に飲み干すと、幾分か涼しくなった中庭で体を動かしてこようと文庫本を閉じる。
そのとき、にわかに周囲が騒がしくなった。パタパタと駆ける足音や、慌てたような声音が、廊下の方からひっきりなしに聞こえてくる。ただ、耳をすましても話の内容までは聞き取れなかった。気にはなるが部外者の悠人が詮索するわけにはいかない。そう思っておとなしくしていたのだが。
「……悠人さん」
執事の櫻井が、血の気の引いた顔をこわばらせながら部屋に入ってきた。その揺れる双眸からは困惑と動揺が窺える。悠人もつられるように顔をこわばらせて息を飲んだ。嫌な予感に、だんだんと心臓の鼓動がうるさくなっていく。
「何かあったんですか」
「現在、詳細がわからず情報収集中ですが……」
櫻井はこころなしか震える声でそう前置きし、悠人を見つめて言う。
「大地さんと美咲さんの乗った船が、沈没したそうです」
「…………?!!」
一瞬、告げられた内容を理解できずに動きを止めたが、すぐに目を見開きはじかれたように立ち上がる。その勢いで椅子が派手に倒れたが気にするどころではない。正面の櫻井はいつものように姿勢正しく直立したまま、つらそうに眉根を寄せた。
「生存者はまだ見つかっていないと聞いています」
そんなの、嘘だ——。
目を開いているのに何も見えず、まわりの音も耳に入らない。吐き気がするほど頭の中がぐわんぐわんとまわり、足もガクガクと震え、崩れ落ちないようその場に立っているのが精一杯だった。
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