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あまり、いい噂はないと志摩が言う。
「倉田さん、やさしいからな…」
情に流されていますね、と、倉田が指摘していた。確かに、あの山の上の子供たちが待っていると思うと、多少の無理はしてしまう。お腹を空かしていないか、心配になる。
志摩には姉がいて、丘の上でペンションを経営していた。結婚した相手が漁師で、志摩は突然両親から、家を継がなくてもいいと言われたと言った。
「水産高校で、小型船舶の免許を取って、特殊も取って、営業できるなと思っていましたよ」
民宿では、いい未来はない、親の判断だったのだろうが、せめて水産高校に行く前に、もう少し早く言って欲しかった。でも、志摩は俺と会って、妙な夢を抱いた。
「倉田さんと一緒に、大学生活してみたいなと思いまして、これは、いいチャンスを貰ったと思い直しました」
真面目で不器用、やさしいが抜けている、俺を傍で守っていようと、志摩は心に決めたのだそうだ。
「恋は一瞬ですが、思い続けるのは根性ですね」
あまりに片思いが長く、もう振られても、このままですからと、志摩は告げていた。
「変な奴だな、志摩…」
不思議な存在の志摩、でも、故郷に来て、少しずつ理解できるようになった。人間は複雑を重ねて、多分自分から単純になってゆくのだ。
「ええと倉田さん、キスくらいはいいですか?」
「聞けば、いいえ、だ」
「ならば、聞きません」
窓の外は、海が近かった。波音も車の騒音に消される、潮風も今は穏やかだった。志摩の手が、俺の肩に回り、後頭部をがっしりと抑え込んだ。少し力が強いのではないのか?と疑問をぶつける前に、唇を、温かい志摩の唇が塞いでいた。
逃げられないように、がっちりと抑え込んでくる。こんなに力一杯のキスは初めてであった。もう少し、かっこよくとか思わないのかと、文句の前に、舌がねじ込まれていた。
いつもは入れるほうで、舌を入れられるということも初めてで、息継ぎがうまくできなかった。
溺れそうな感覚。それは、恋に溺れるではなく、海で溺れるに近い。俺は、志摩の背を叩き、ギブアップと訴えた。
「…倉田さん、また、キスしますから。少し上手になってくださいね」
何だと、と、怒りを覚えるが、志摩の笑顔は明るかった。
「ごちそうさま」
志摩は、明るい海のようだった。
第三章 嵐去り雲高く
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