第1章

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『失礼、まだ起きていらっしゃる?』 『ええ、起きていますよ』 『あなた、そんなこと考えたって仕方がないわよ』 『アイデンティティのことでしょうか?』 『そうよ』 『それはまだどうして』 『だって、今のあなた自身がすでにアイデンティティの証明なんですもの。環境、交友関係、趣味、あなたを取り巻く全てがあなたのアイデンティティですの』 私を取り巻く全て。会社に課長、妻、この静かな部屋、煙草、私。 これが私の証明? 『あまり、よくわかりません』 『分かろうとしないのも一つの手だわ』 『含みのある言い方ですね』 『本当は心の中で、とうに分かっていらっしゃるんじゃありませんの』 『私は取り換えの利く人間だって、ですか』 『ほら、やっぱり』 そう、私は私であって、私でもなくてもいい存在。 会社は有能な人間がいればそれでいい。 課長は自分の地位が守れればそれでいい。 妻は金を出してくれる男がいればそれでいい。 私は都合の良い人間なのだ、それも他人にとって。 『でもあなた、物は考えようですよ。だって、何事も全て真っ向から受け止めていたら生きにくいったらありゃしないでしょう』 『あなたもそうなんですか?』 『もちろん、私は演じる女、女優と思ってますの』 『私と話している、今は女優?それとも一般人?』 『さあ、どうでしょうね♪』 私も演じる男になろうか。ただ演じているだけだと。 少し想像した。 けれど、思い描く人生でないことに変わりないのかもしれない。 『そろそろ、お風呂で身体を流してこようと思います』 『そう、いってらっしゃい。楽しめたわ』 『ではまたあとで』 私は携帯をコンセントにつなぎ、風呂場に行った。 風呂を上がって戻ると、携帯の通知ランプがちかちかと点滅している。 一件の新着メールが届いていた。 『ご利用ありがとうございます。規約にもありますように、十万円を期日までにお振込み下さい。淑子』 私の手から携帯が滑り落ち、乾いた衝突音を鳴らした。 まだ火照った身体から雫が一滴、画面に落ちた。
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