その男、寡黙につき

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 車内は満員で息苦しく、私はうんざりした気持ちで愛読書を取り出し、施設の友人と歌い合っていた『赤い靴』を鼻唄でくちずさみました。男は、そんな時に現れたのです。  最初は異変に気付きませんでした。と言うのも、手すさびにめくっていた小説がおもしろく、私は没頭していたのです。  物語の山場を一つ越えた所で丁度、集中が途切れた私は、ふと顔を上げました。そこに、その男がいました。  年の頃は五十代も目前といったところでしょうか。皺の寄ったスーツに、薄くなってきた頭。中間管理職の哀愁を写実派の画家が描くとおそらくこうなるのだろうな、という具合です。そんな男が、私の顔を覗き込んでいるのです。  私が優先席に座っているのが、そんなに疎ましいのかしらんと目を合わせましたが、視線は交わることなく、男の方から一方的に切れました。きっと疲れているんだわ。そう思い直し、私はまた『赤い靴』を口ずさんで到着を待ちました。その日は、それで終わったのです。
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