第1章

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 あきらかに密会の名残を惜しんでいるのが好太郎には判った。出てきた所は水茶屋か、あいまい宿と思われた。  旅籠『大滝』はそのあいまい宿であった。本館は旅人宿だが、裏の別館が連れ込み宿だ。 「しばらく逗留したい」  応対に出た番頭は好太郎の品定めをするように、細い目を見開いて頭のてっぺんから爪先まで、嫌らしいほど念入りに見定めた。 「お荷物が見当たりませんが」 「宿探しは身軽なほうがよい。あるところに預けてある。承知なら取って参る」 「しばらくとは、どのぐらいのご予定で?」 「人探しをしている故、立ち去るときはご領内にその人物が居らぬと判断したときだ」   「そうですか、とりあえず二三日分の前金は頂きたいですが、よろしいですか」 「五両預けておく。荷物を取りに行くまえに、部屋を見せてもらおうか」  細い目尻が下がり、番頭が揉み手をしながら部屋に案内した。襖をあけると裏山から一条の滝が落ちていた。右に目を転じると、裏庭のなかを縫うように竹襖がくねって離れまで続いていた。  二階の好太郎にも竹襖の背が異常に高く、庭石を踏む客の姿は見えない仕掛けになっていた。どうやら離れの入り口も別のところにあるようだ。  人目をはばかるには、これほどの隠れ蓑はない。うまく設えてあるものだ。それだけではない。地理条件を見事に考えたあいまい宿だ。  というのは、この宿は寺町の外れで、藩が軍事上の外敵進攻を阻むために、市中にあった寺をここに集めた。潮音寺、善覚寺、般若院など五十数寺を配置し、それぞれの寺が高い塀を巡らせている。  町家筋からさりげなくこの寺町に足を入れると、迷路のように区画された露地と高塀で姿を消せるのだ。逢い引きする男女・男オンナにとって、これほど好都合な宿はない。  やたらと鈴が鳴っているのは、客の出入りの合図なのだろうか。女中が茶菓を運んできた。薄皮に餡をいれた、小判形に押し潰した焼き餅であった。一口でたべたが美味だった。 「お客さんはお泊まりですね」
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