第1章

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「明晩から世話になる」 「宿帳にご記帳を……」  正直に姓名を明かすわけにはいかない。そこで思いついたのが田崎源之介の名だった。ついでに武者修行中と書き添えた。これなら何処に出没してもそう怪しまれることはない。 「剣客?」  剣で飯を食っているわけではないから、剣客ではない。 「まあ、そんなところだ」 「強いのですか」 「相手によりけりだな。相手が弱ければ強いと評判が立ち、相手が強いと弱いといわれる」  お客さんもひとが悪いと女中が笑った。  何となく阿波は面白くなりそうだ。女中には一朱握らせた。少々張り込みすぎたと思ったが、後々のこともある。どうやら話し好きの女のようだ。この手の女は何かと役に立つと踏んだのである。宿は決まった。明日から〝お役目〟に精出さねば……。  橋のたもとに立って十日が過ぎた。その間にも人出の多い町屋筋はくまなく歩いた。  紙屋町、八百屋町、中町、紀井国町、通り町、富田町、大工町から古物町とわたり、くずら屋町、えびや屋町、免許町、佐古町とそれも二回りした。福島町から海に向かって舟大工町。足を南にとって二軒屋町と町と名が付く筋はことごとく踏破した。 どの筋も夕刻からは男オンナがうろうろ町を錬っていた。まさしく異常としか思えない。  この城下は狂っている。奇妙奇天烈な町だ。このままだと早晩藩は自壊するであろう。  ──捉えて、質して見るか。  咎人ではないから、力尽くで捕捉する訳にも行くまい。鄭重に質すのが礼儀であろう。そのうちに彼らの意中も察しがつく。  こちらの出方しだいでは一物だって拝めるだろう。とにかく彼らが生まれついてのものなのか、それとも人の手で去勢されたものなのか、確かめるのが先決である。  眉山寄りの橋詰めで、日が落ちるのを待った。薄暮に誘われて人は町に出る。仕事の疲れを癒やしに出るのか、獲物を求めて寄り集まるのか、灯の明かりに誘われて集まってくる。人も魚も灯が恋しいものらしい。  橋詰めには自身番があった。
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