第1章

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 一陣の風が吹き抜け、汗ばんだ肌を心地良く撫でて行く。風に一息入れ男坂を下って乾診療所へ向かった。  坂を下りきりほんの百歩も行ったところが、練三郎の仕事場と居宅である。売りに出ていた旗本の別邸を、練三郎の父が求め、倅の独立祝いに贈った屋敷だ。  待合部屋にはまだ十人ほどの患者がいた。このところいつ訪ねても患者の姿があった。世評どおりの名医なのだろう。  何しろ、練三郎は優しい。どんな患者にも分け隔てなく接する。練三郎がいうには手術が必要な外科施術は別にして、ひとの病のおおかたは精神的なものに起因するという。    心を癒やしてあげればあとは少々の薬剤で治まるものらしい。病は気から、そこをどう接して見抜くかだともいった。練三郎は外科が専門だが内科も診る。  暫く待合部屋で待つことにした。  ぐるっと見廻すとどの患者も晒しを何処かに巻いていた。臑であったり足であったり、腕であったりした。首に巻いている女もいた。どうやら話しの具合で腫れ物らしい。骨折のひともいた。晒しの下に添木が見えた。 「あら、奈間倉さま、お越しでしたの」  と珠美がいった。練三郎の妹である。堅苦しい屋敷から抜け出して、息抜きに来ているのだ。 「今日に限ってお珍しい。いつもは勝手に上がり込むのに。さあ、どうぞ、兄の手が空くまで私が一手指南して差し上げるほどに……」    珠美が笑いながらいった。 「軽ぁるく揉んでさしあげますわ」  いつものことながら、小憎たらしいじゃじゃ馬だ。珠美が頻繁に姿をみせるのは、好太郎との対局で手玉に取れる楽しみを知ったせいだ。  これは練三郎の話だからそうなのだろう。十日も姿を見せぬときなどは、下男の老爺を様子見に寄越す始末であった。 (軽く揉んで差し上げる……)などと、若い娘それも千二百石禄りの大身旗本の子女が口にすべき言葉ではない。ここのところ女体から遠ざかっている好太郎には刺激的な言葉だった。 
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