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◇ ◇ ◇
「私、行かないんだから!」
少女は口元を真一文字に引き結んで怒った顔をしていた。
ふたりがそれぞれの生地へ発つ前夜、心づくしの仕度を調える幸子の手伝いを、少年は何も言わず、もくもくとこなす。
幸宏も腕を組み、大きな子供が拗ねたような顔を隠そうともせず、煙草をふかしてその様子を見ていた。
「ねえ、先生! 先生も、いやだよね、ふうがいないと、さみしいよね?」
「ああ、さびしいよ、富美ちゃん」
幸宏は少女を、『ふう』ではなく、『富美』と呼んだ、正しい名前で。
「知らない、富美なんて! 聞いたこともない名前でよばないで!」
「止めろよ」少年はぴしりと言う。
「僕たち、もうここにいちゃいけないんだ」
「どうして!」
「帰る家があるから」
「会ったことのない、知らない人がいるところなんて、私の家じゃないもん! 先生、たすけて、ふうをたすけて!」
「わがまま言うなよ!」少年はイライラとして、手に持つものを彼女に投げつけた。
当てるつもりはなかったので彼女には届かない、けど、少女は、きゃあと声を上げ、べそをかいた。
「あたし、どこへ言っても邪魔者なんだ、だから追い出される!」
「違う!」幸宏は叫んだ。
「でも、先生も、引き留めてはくれないんだもん!」
「それは……」幸宏は言葉に詰まった。
「仕方ないだろ!」少年は地団駄を踏む。
「僕らがここにいつまでも居座ると、先生たちに迷惑がかかる! お巡りにつかまるかもしれないんだ!」
「ちょっと待って! そんなこと誰が言ったの!」幸宏は少年の襟首をつかんで引き寄せた。
「ここに来た役人たちだよ。僕たちは他人だから、いつまでも僕たちがいると先生は難しいことになるだろう、えっと、法律イハンだって」
「ばかな」
幸宏は口を何度も開けて閉じてを繰り返し、それでも二の句が継げなかった。
「先生がつかまるの、いやだろ、ふう」
「……うん」
「だから、わがままはもう言うな、『富美』」
「わかった、『宗太』」
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