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中長距離が得意な稲木は四百メートル自由形に出場している。
途中、何人かは半分を過ぎたあたりから徐々にペースが落ち始めたが、稲木を含む上位三人は、最初の勢いそのままに横一線に並んだままだ。
なかなか勝負のつかない展開に、会場内の声援も徐々に大きくなる。
(稲木さん、頑張れ!)
残り百メートルになったところで、稲木のペースが少し落ちた。
ビデオカメラを持つ健太の手のひらに汗がにじむ。ドキドキと忙しなく動く胸の内もそのままに、健太はもう一度ビデオカメラを構えなおした。
「有吾ーっ! 頑張れーっ、根性見せろーっ!」
それまで無言でじっとプールを見つめていた西條が声をあげた。前の座席にしがみつくようにして身を乗り出している。
「有吾ーっ! 有吾ーっ!」
「稲木さーん!」
声の限りに稲木へ声援を送る西條の横顔は真剣そのもので、健太もカメラを構えたまま、西條に合わせて声をあげた。
(………………あ)
ビデオカメラのモニター越しに、ちょうど息継ぎをした稲木が観客席にいる健太たちの方を見たのがわかった。
あれだけの歓声の中、泳いでいる稲木に健太と西條の声が届くはずなどないのに、確かに稲木は観客席…………西條の姿を捉えた。
西條も気づいたのだろう、一瞬、稲木を呼ぶ声が止まる。
「西條くん」
「…………ゆ、有吾っ! 行けーっ!」
まるで西條の声に後押しされるように稲木のペースが上がる。
あっという間に遅れを取り戻した稲木は最後まで接戦を繰り広げ、タッチの差で一位を勝ち取った。
「西條くん! 稲木さん、一着だよ!」
撮影を終えた健太が隣の席へ顔を向けると、会場の熱気で上気した顔の西條が目を潤ませて健太に抱きついてきた。
「久米っ! 有吾が……有吾が勝った。どうしよう、嬉しすぎて何て言ったらいいのかわからないよ」
「西條くん」
「有吾以外、みんなすごいヤツばっかりだし、インハイのタイムだけでも切れたらいいと思ってたんだ……なのに一番って、信じられない。嘘みたいだ」
嬉しいのに、今ひとつ素直になれない西條。いかにも西條らしいなあと思いながら、健太は「よかったね」と言って西條のことを抱きしめ返した。
(次は内藤……稲木さんみたいに頑張ってほしいなあ)
そう思いながら、健太は静けさを取り戻したプールへ目を向けた。
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