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『彩星、早く乗って。』
先に左側のシートに身を預けた冬也が、開いたままのドアの前で止まっている私に声を掛けた。
『冬也、今日は先約があるから…本当にごめんなさい。』
『……分かった。今日は突然だったからね、俺の方こそごめん。
彩星の都合、教えてね。それじゃ、また。』
車高の低い冬也の車が、ゆっくりとウインカーを出しながら車道に出て去っていく。
部長、先に帰っちゃったかなぁ。
徐にバッグの中から携帯を取り出して、着信履歴から部長を選ぶ。
『彩星。今どこ?』
呼出音が鳴る前に繋がった電話の向こうからは、穏やかで優しい大好きな声。
『まだ、会社の前です。』
『……見つけた。』
部長の声と同時に、後ろから腰に回された手で引き寄せられて。
『ちゃんと断ったんだね。偉いじゃん。』
隣に現れた部長は、電話を繋げたまま話す。
『あ、当たり前ですっ!』
私もそのまま電話で言い返すけど、部長の得意気な表情はこれっぽっちも崩れなくて。
『帰ったら、さっきの続き、しようか。』
急にトーンを落とした声が、左耳に当てた携帯から聞こえてきて。
右耳には、吐息がかかる距離で部長が囁く。
現実と目に見えない空間から聞こえるその甘い声が、非常階段で味わった感覚を思い出させるから。
私は俯いて、真っ赤になってきた顔を、髪で隠した。
『彩星、したい?』
この距離と、その空間と、部長の声が、どんどん私を追いつめていく。
受話口から聞こえる機械音は、終話を報せるワントーンに変わって。
甘くて溺れそうな波打ち際。
私の手を、部長がそっと引いて、会社を後にした。
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