くらがりの百足

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 水垢でくすんだ真鍮の蛇口を捻り、頭から生ぬるいシャワーを浴びる。  がりがりに痩せ細った男は括っていた長い髪を解き放ち、背中の中央にまで垂らす。強い流水がその黒髪を叩くたび、こびりついていた赤黒い塊が足元に流れ落ちる。擦りきれた布地を手に取り、表皮を撫でる程の力でそれを滑らせる。左腕、首筋、上半身、右腕、背中、腿、足。磨くように体をなぞり終えた時、針金のような右の上腕に、ふと、鈍い青紫色の痣のようなものが浮かび上がった。 「…もう目開けても大丈夫か」 そのしゃがれた高い声は、まさに現れた痣から放たれた。 「血生臭くて堪らん」 「…黙れ」 細身の男は蛇口をさらに回しつつ、低い声で呟いた。しゃがれ声は気にせず喋る。 「乙女かよお前は、何こちょこちょ洗ってんだ」 「…代謝が近い。下手に刺激与えて仕事中に『脱皮』が起こったらまずいだろ」 男はうんざりした様子で答えた。 「もしそうなったら、お前ごとひっぺがしてやる」 「ひひ、非情なご主人様なことよ」 痣は不快な引き笑いで応えた。  風呂から上がると、男は薄手の黒いインナーと下着を身に付け、古本で埋め尽くされた本棚に引っかけられた無数のハンガーの中から、麻の短パンを取り出し履いた。  男の部屋はだだっ広く、薄暗かった。細い通りに面した(家賃的にも、建物の高度的にも)あまり高くない集合住宅の最上階の一室であったが、元々さほど日差しが差し込まない上に、開け放たれた窓の外のちょっとしたテラスは外からの視線を避けるために薄くて広い布で全体が覆われていた。  男は背の高い本棚から、分厚い本を取り出した。ほとんど研究者がピンセットで取り扱う古文書のような古びた様相のものであったが、部屋に似合わない豪華な装飾の施された大きな椅子に腰かけると、彼は遠慮なくバラバラと素手でめくり、文字を追いはじめた。 「何だそれ?」 しゃがれ声が服の下から問いかけた。 「この国の言語じゃねえな」 「…もう存在しない言語だ」 痩せた男は応えた。 「近々使うかもわからん」 ページを捲る手を止めた。 「英語って言うんだ」
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