秋陽炎

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【1】 ――なんだか妙なものが見えると思ったら、一瞬のうちにそれは、私の目の前まで肉薄していた。 距離にして、おおよそ人間一人分。それは私を嘲笑うかのように、ゆらりゆらり、と揺れていた。 私はそれを影だと認識した。黒い――そう、これは人の影……では、ないだろうか。眼前を揺れる、黒い靄のようなそれを、呆然と見つめながら、私の頭はそう結論付けた。 人の、影。 光に照らされた時、足元にできるそれが――何だろう、何故だろうか。中空に、まるで人間そのもののように……ぼんやりと、漂っているのだった。 不可思議だった。 こんなことがあるものなのかと。 理解不能だった――と言っても、構わない。 ただ、不思議と怖くはなかった。それは、どこか煤けているようで、滑稽だったし、何より、その薄らぎ加減が、いかにも儚そうで――脆弱そうで、それは恐怖を抱くには、あまりにも弱々しすぎた。 暑さも薄らいできた、秋の仄かな光に――雲一つない空から、無機質に放たれるその日光に晒されて――その影は、今にも消え失せてしまいそうに思えた。 ――ああ。 と、私がなんだか寂しげな……切なげな気持ちに襲われたとき。 ふっ……と。 その影は、いよいよ掻き消えてしまった。 辺りを見渡しても、どこにも、漂う影など存在していない。 ――その消失は、影が現れたときのように、突然の出来事だった。 【2】 「へえ、そんなことがあったのかい」 その事を、友人の椎堂に話すと、彼は興味深そうに頷いた……ように思えた。本当に頷いたのかどうかは、私には判別できない。何せ、この会話は携帯電話を通じて行われているのだから。 余談だが、私は携帯電話が嫌いである。それは通話、つまるところ電話と言うものが嫌いだからであり、故に、正確に言えば嫌いなのは、携帯電話ではなく電話と言うことになる。 しかしながら、一介の大学生である私にとって、連絡ツールと言うものは必須である。が、嫌いなものは嫌いなのだから、仕方あるまい。 よって、基本的に、私は携帯電話を使わない。精々、稀に友人から掛かってくる電話を取るだけである。論理的帰結に乗っ取って考えれば当然であるように、この電話は私から椎堂に掛けたものではない。 本題があって、そのついでのように……そう、世間話のように、私はその話をしただけなのだ。 数日前に、見た、あの人影の話を。
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