春に咲く

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【一】 「茎のない花を見たことはないかい?」 私にそう尋ねてきたのは赤淵という名の男だった。 彼は私と同学年でありながら二歳年上の青年である。包み隠さず正直に言うのであれば私は彼がひどく苦手である。蜘蛛の糸を丸めて詰め込んだような不気味な目をしていて、その目じりは狐のようににやついている。かと思えばその笑みはどことなく人間くさくて、その印象が不意打ちのように襲い掛かってくる。瞼の奥の、光のない虹彩に凝っと見つめられていると心の奥の深い部分まで見透かされているようで落ち着かない。ありていに言って気色が悪い。 何より、私が赤淵に最初に出会ったときに言われた言葉(――君はよくない)それが私を鎖のように縛り付ける。どこまでも、どこまでも。根深く、抉るように。まるで心臓に穿たれた銛のように。 だから私は赤淵という男が恐ろしく苦手であり、よってこうして話しかけられるのは好ましいことではなかった。 「……茎のない花?」 故に、私の声に幾分剣呑さが混じっていたとしてもそれは仕方がないことだろう。その唐突な話の切り出し方(妙なことを訊かれたものだ)も相まって、私の声はかなり不機嫌そうなものになっていたのではないかと思う。 赤淵はそんな私の声音に対して、むしろ愉しそうに喉の奥でくつくつと笑う。きっとこの男は私が不機嫌であればあるほど機嫌よく振る舞うことだろう。 「そう、茎のない花だ」 私の鸚鵡返しの言葉に対して、同じように返す赤淵の言葉。なんとも要領の悪い会話だと思う。情報量が一つも増えていない。私はすっと目を細める。なんだか馬鹿馬鹿しい雰囲気を覚えた。 「なんだ……それは」 私は生憎と植物には詳しくない。花への造詣もひどく浅い。なんならつい最近まで水仙と菫の違いもわからなかった。最近知り合いに白い水仙をもらう機会があって、ようやくその二つが違う種類であることを知った。 だから、そんな風に、茎のない花がどうこう、と言われても答えようがない。いかにも知能指数の低そうな発言であろうと、なんだそれは、と言うほかにないのだ。 「そうか、知らないか」 私の言葉に、赤淵は少し笑みを濃くして言う。 「なに、ちょっとした噂話を聞いてね。なんでも、春にだけ咲く『妙な花』があるらしい」 「……花は、春に咲くものだろう」 「君が花や植物について疎いのは知っているが、それはいくらか偏見が過ぎると思うけれどね」 そういうものなのだろうか。赤淵の言葉に、私は息を大きく吐く。どうして私は苦手な相手と興味のない分野について話しているのだろうか。そう改めて考えだすと嫌に鬱屈とした気分になる。 ――場所は、長椅子同好会の部室だった。長椅子同好会はおそらくこの継ぎ接ぎ大学(正式な名称ではもちろんない)の中でも最高峰の怪しさ、そしてくだらなさを有したサークルであるが、にも関わらず部室というものを持っている。そこは校舎の裏手にある墓に面した部屋で、窓はめったに開けられない小さな採風窓が一つだけ。そのせいで一年中じめじめとしており、さらに言えば電灯も古いものらしく時折ちかちかと点滅しては中で寛ぐ人間の視力に悪影響を与えてくる。 部屋の中は所狭しと無秩序に並べられた四つの長椅子のせいで非常に窮屈である。まともな人間であればおおよそ長居したくなるようなところでは断じてないが、何の因果か私はこのサークルに所属しており、不思議なことにこの場所が気に入ってしまっていた。 私はその中の緑色の革の張られた長椅子に座っており、赤淵は部室の出口付近に立っている。人と会話するには幾分遠い距離であるが、しかし赤淵と会話する分にはこのくらいの距離間のほうが落ち着くようにも思える。いや、それは嘘だ。この男と会話を交わすのに落ち着くときなど一瞬たりともあり得ない。 いつだって、その不気味な瞳は私を苛む。 「……それで。その花がどうしたと言うんだ」 私は会話を促すようにしてそう言った。いつまでも会話が終わらず、赤淵と顔を突き合わせているのは愉快な気分ではなかった。そんな私の心理を知ってか知らずか、赤淵は「いや、ね」などと焦らすように緩慢と言葉を紡ぐ。 「どうにもそういう花があるらしいんだ。茎がなくて、地面から直接、真っ黒な花弁が生えている。真ん中にはまるで畸形のような不気味な柱頭があるという。花弁は先端が人間の指のように五つに分かれていて、今まで見たどんな花とも似つかない」 「そういう花があるのか」 「あると言う話だよ。風聞だけれどね。生憎と俺は知らないし、見たこともない」 赤淵の話を聞いても、私にはその花の造形が今一つ想像できなかった。そんな花があるものなのだろうか。そもそも植物に対して積極的に関心を抱いたことのない私は、黒い花というもの自体見たことがない。 私は言う。 「その黒い、茎のない花がなんだと言うんだ。確かに聞く限りでは珍しい種類の花のように思えるが、赤淵、お前はそんな、植物に興味を持つような人間だったか?」 「いいや? 植物全般とまで対象を広げてしまえば、どうだっていいさ。けれど、その茎のない花だけは別でね」 「別?」 赤淵の勿体ぶったような言葉に私は眉をひそめた。なんだか……妙に厭な感じがする。こう、上手く言語化できないのだが……背筋が冷えるような……否、むしろじっとりと纏わりつく不快な暑さのような……そんな、感覚。 こういう感覚は、前にもあった……ような気がする。それは例えば眠れない夏の夜のことだったり、残暑に垣間見えた影のことだったり、そして……冬。冬? 冬には何もなかった筈なのだが……(ああ、だがこのイメージはなんなのだろうか……冷たい、乳白色の……)とにかく、私はこういうものを知っているような気がした。 気がしただけだが。 「どうしたんだい? 随分と、顔色が悪く見える」 「……なんでもない。それより、何が別だと言うんだ」 私の揺れ動く感情を見透かしたような赤淵の言葉を受け流すように、私は話の続きを促した。赤淵は口元を強く歪めて、目の奥で笑う。 「噂によればね……どうにも、その茎のない花の下には面白いものが埋まっているそうなんだ」 「面白いもの?」 「そう……なんでも、とても恐ろしいもの(、、、、、、、、、)、らしい」 ――とても、恐ろしいもの。 「なんだ……その、酷く抽象的な表現は」 「さてね。生憎と俺も話で聞いただけだから。けれど、ねぇ、君、もしそんなものがあるなら――」 赤淵はそういうと、一瞬顔を俯かせる。そして―― 「――ぜひとも、見てみたいとは思わないかい?」 そう言った赤淵の顔には、形容しがたい悍ましい笑みが張り付いていた。まるでケモノのごとく、人ならざる角度まで裂けたように見えるほど、深く吊り上がった口角。笑っているというのに、一切の光を反射しない水底のような瞳の奥からは何の感情も汲み取れない。 私は。 思わず、目を逸らした。 「……思わない、な」 なんとか、言葉を絞り出す。喉の奥の水分がすべて蒸発してしまったかのように、渇きを訴えている。なんだか無性に水が飲みたかった。 「そんな、恐ろしいもの……見たいと思うほうがおかしいだろう」 私の言葉に、赤淵は、ふっ、と表情をもとに戻した。 「そうかい。なら、まあ、いいさ。妙なことを訊いて悪かったね」 それだけ言うと、赤淵は部室に背を向ける。彼の奥にある筈の廊下は、深い闇色に閉ざされていて見えない。 ――まだ日暮れには早い筈だが。 この男はいつだって暗がりを背負っている。 「それじゃあ、俺はいくよ」 「……そうか。元気でな」 赤淵の言葉に、私は思ってもいないことを言った。 「ああ、君も元気で」 そしてきっと、赤淵も、思ってもいないことを返した。 暗がりの廊下に硬質な足音が響き、やがて消えていった。
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