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気が狂いそう。
言葉のわからない国に、唐突に連れてこられた。
全ては彼が中心。わたしは彼についていくだけ。
世に言う、海外駐在員の帯同家族。
ねぇ、わたし何のために生きてるの?
わたしには、わたしの人生があるんだけど。
そんな言葉をぶつけられないくらい、夫は仕事に手一杯だ。現地スタッフとのすれ違いは日常茶飯事だそうで、一日四時間という短い睡眠の間にもうなされている。
この国の気温は体温より暑い。ジリジリと照りつける日差しで百メートルすら歩けない。電車はない。タクシーは値段交渉しないと乗れない。少しは申し訳なさもあるのだろうか、夫はわたしに、運転手つきの車を借りてきた。
わたしが車を乗りこなしてひとりで遊びに行けるとでも?
海外駐在員の妻なんて、つくづくむいていないのだ。日本人同士だって、気が合う人としかうまく話せない。外国語なんて、学生時代から拒否反応が止まらなかった。グローバリゼーションという名の悪魔め。
それでも。
わたしは週に二度、必要に駆られて車を呼ぶ。食料品を買うためだ。お米がないと生きていけない。
運転手に、行き先を書いた紙を渡す。
初老の運転手は、何も言わず紙を受けとり、目的地まで連れて行ってくれる。
彼も、苦手らしい。最初の日、片言の英語で何か言われた気がする。それが伝わらないと分かってから、彼は無言だ。表情も動かない。
数ヶ月が経った。
熱帯の国は雨季に入った。豪雨が打ちつけられる車の窓ガラスには、ぼんやりとにじんだ色がうつるだけ。
渋滞にはまって二時間。
わたしは普段より険しい顔をしていたのだろう。
運転手が、振り返った。
胸ポケットから、紙を取り出す。咳払いをしてから、おもむろに読み始めた。
「ワタシ」
「……?」
「ワタシ、ノ、ナメワ」
「なめ……」
「ワタシノ、ナメワ、タナカデッ」
「……タナカデッ?」
ノーノー、と、彼は言った。
「タナカ、デス」
ぽかんとするわたしを見て、イッツ、ジョーク! と彼は言った。そして、どこからかプルメリアの白い花を取出し、わたしに差し出した。
「あ、ありが……サ、サンキュー」
彼が、初めて笑った。目じりの皺が、人懐こい。
その日から、わたしはこの国をもっと知ろうと思った。
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