第1章

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「いやだわ、汁で手がベトベトですわ」 「はは。ほら、この布巾でふくがいいよ」 「ありがとう。優しいのね」 キヨ嬢の白磁のようにすらっと滑らかな人差し指に用も無いのにわざとらしくふれながら、 「新鮮で甘いから、どうしてもベトつきますね。 ……今夜は僕の部屋であちらの汁も凄いことに」 こうなっては山崎を抹殺するしかありません。 ただ、もし仮に万が一、 キヨ嬢が山崎に友人未満の気持ちながらも、わずかばかりの親しさを奴に感じてしまっていた場合はどうなるでしょう。 蚊に刺されたほどではあるにせよ、山崎が抹消されたことを知れば優しい彼女は心を痛めることがあるかもしれない。 そう思うと、キヨ嬢には蚊に刺されたほどの痛みすら感じて欲しくないわたくしとしては気がとがめる次第なのです。 わたくしは次々にもたらされる速報号外や怒号や嗚咽が舞い乱れる校内に1秒たりとも居たくない心境になり、 駅の方へ足取り重く逃げ出したのでした。 気づけばキネマの明滅する白黒の活劇を見ていました。 それは赤穂浪士四十八手という助平活劇の金字塔で、 何度も「最早生涯見るまい」と誓うほどの駄作でありながら、不思議と裏町映画座で見かけると思わず入ってしまう魔性を持った作品でした。 赤穂浪士に扮した女優たちが松の廊下で松ぼっくりを必死の形相で演じる場面を見ながら、わたくしは泣いておりました。 それはおそらく偉大なる崇拝者の消失という、人生の中の岐路を通り過ぎた痛みに、わたくしの涙腺が耐えきれなかったと推察されるのでした。 後悔だけを胸に映画座を出ると、足は自然と駅とも大学とも違う方向へと向かっていました。 まだ日暮れには早く、家に帰る気持ちにはなれませんでした。 わたくしは学生街をあてもなく歩きました。 いつもならばどこかしかで日暮れまで暇をつぶす顔見知りの商店街を脇目も振らず通り過ぎ、いつもと違う何かを探しながら歩いておりました。 そうこうするうちに、 どこからか漂ってきた香ばしい唐黍を焼く香りに鼻先を軽く摘まれ、 山手線沿いのとあるお寺にわたくしは導かれたのでした。
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