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境内は祭りの賑わいを見せていました。
浴衣、学ラン、シャツ姿の人だかりが、良い匂いをさせている屋台や地面に広げられた小物を愉快そうに囲んでいました。
そうでした。今日は7月の第2土曜日に行われる骨董市の日でありました。
鉄板の上で麺と野菜の水分が、ジュッと蒸発する音と香ばしいソースの香りがたまらなく腹に訴えかけてきて、わたくしは先ほどまで悲嘆し切っておった人間とは到底思えない勢で、焼きそばを購入して瞬時に平らげました。
唇についた青のりを拭き取りながら、嗚呼キヨ嬢の唇についた青のりを拭きたい、と心から思いました。
キヨ嬢についてこのような直球の欲求を抱いたのは初めてのことでした。
なぜこのような素直な気持ちが今更になって出てくるのか。
自らの浅ましさと未熟さに再び悲嘆にくれていると、ふと人波の切れた先に置かれた一冊の古びた本に目が吸い寄せられたのでした。
どこかの金持ちがくだらない満足のために作成した私家版の書籍なのだと推察されました。
それは表面に天鵞絨が貼られており、表紙と背表紙には金の糸で絵の刺繍が施されていました。
それが滑稽なほど不細工な猫の料理人を表しているのを見るとわたくしは哀れみを感じました。
しゃがみ込んでその本を手に取ってみました。
思ったよりもずっしりと重く、生き物のような滑らかな肌触りを持った不思議な本でした。
上目遣いで店主を見ると、「それは200円だよ」と言いました。
「200円ですか」
「そう」
わたくしは再び本に目を戻し、しげしげと刺繍の猫をみつめました。
中を開いてぱらぱらとみると、なにやら英字で書かれた食材の名前が見て取れました。
「これは何の本ですか?」
「料理。西洋の料理の本」
「なるほど」
「今日だけ200円」
「ふむ」
元来、料理などまったくしないわたくしには明らかに無用の長物でしたが、その時は動転していたと言う他ありません。
何が「ふむ」だ。
兎に角その時は、西洋の料理を習得すれば「キヨ嬢に褒めてもらえるのではないか」という根拠不明の希望が胸の奥底から湧いてきて、無敵になる道具を手に入れたかのような高揚感の中で、わたくしはそれを購入したのでありました。
けれどそれが結果として、今につながる最高の決断だったのです。
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