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下宿先の台所テーブルに腰掛けながら、わたくしはその不可思議な本を読み始めました。
いったいどこの誰がこんな下手くそな刺繍を施したのでしょう。
この中にはいったいどんなことが書かれているのでしょう。
考えただけでも胸が高まります。
キヨ嬢を振り向かせる術が詰まっている本というだけで顔が熱くなり、第1ページ目をめくる指先が震え、何度も指が空を切りました。
それは旅行記でした。
神戸の港から出発した白猫のフィンガーが、世界中を巡るうちに得た世界の食材とその調理法をそれぞれの港での恋話しを交えながら紹介する、という筋のものでした。
旅行記となれば、わたくしの大得意な分野です。
以前より他国の冒険小説を読んでは空想に浸る、というのを常習としておりました。
恐れずに言えば、わたくしは空想というものが得意です。
その場所・その人物・その時代、そういったものがあたかも現在のわたくしが置かれている現実である、という確信めいた感触をわたくしは感じることができました。
いっとき、世界を股にかける大物スパイの回顧本をさらっていた時期がありました。当時あまりにその伝記の人物とシンクロし過ぎ、あたかも自分が不死身になったかのような勘違いをして荷物も持たず横浜港から外洋行きの船に忍び、危うく脱水症で死にかけたのでした。
時として命を賭しながら、わたくしはその本と数日間向き合うこととなりました。
その間、料理行為には一切取りかかりませんでした。
猫のコックが世界中で出会う様々なエピソード群にただただ手に汗握り、時には呆れ、泣き、大笑いし、憧れました。
本を読み進めるだけの数日間が終わると、わたくしは既に決意しておりました。
目指すはアラブです。
アラブには世界中の料理猫が集まる猫のグルメタウンが存在し、そこにフィンガーが恋い焦がれるマリーシャがいるのです。
わたくしもマリーシャの宝石よりも光溢れる瞳をこの目で見てみたいと思うようになっておりました。
70人の盗賊を若くしてまとめあげるマリーシャの才覚溢れる様相は、想像するだけでわたくしを絶頂まで導いてくれるに十分でした。
あれだけ狂ったように好きだったキヨ嬢のことは、いつの間にか何でもないかのようになっておりました。
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