第1章

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 都から美濃国へと向かうには、近江路をまず東へ、瀬田の長橋を渡り、鏡山を越え、老曾の森を通る。ここまでやってくると伊吹山から吹き下ろす山風がにわかに強くなる。土の濃い匂いのする風だった。 夏の初めであった。山の青葉はもくもくと生い茂り、山風が吹くと梢が銀色に波打つような時分である。海道沿いに広がる田には水が入ったばかりとみえ、山風にさざ波を立てていた。泥の匂いも濃く、蛙の鳴き声も随分と大きくなった。  僧・光陰が諸国行脚の身となり、嵯峨清涼寺を出てから一ヶ月余りが過ぎていた。目指す美濃国野間庄内海は目前に迫っていた。そう思うと気が急いた。  これまでは、辻に打ち棄てられた地蔵を見るや、それを建立しなおし、道沿いに行き倒れを見るや、衣をかけてやっては御法の一つも唱えて功徳を積み、旅の僧らしく、自らの行いに一つ一つ時間をかけて、美濃国まで旅をしてきた。だが、とうとう不破の関を越えるや、足取りは自ずと早くなった。  尾張国野間庄内海――何故もっと早く来なかったのだろう、と光陰は思った。  不破の関を行き過ぎ、海道を下り始めた頃、日が暮れ始めた。  光陰の足は早くなる。墨染めの衣の袖をはためかせ、裾をばたつかせ、光陰は道を急いだ。しかし背後から夕日を浴びて、光陰の影はみるみるうちに伸びていく。やがて、日は山に落ち、影は夜の闇の中に溶けた。  ふと顔を挙げたとき、弓のような細い月が浮かんでいるのが見えて、光陰はようやく諦めて足取りをゆるめた。息があがっていた。  宿をとらなければならない、と光陰は思った。 ――今日には内海に辿り着きたかったが。  光陰はそう独りごちた。  いずこからともなく山犬の遠吠えが聞こえた。一つ、また一つ。  光陰は振り返った。夜の山道は何も見えない。土の匂いがするばかりである。  光陰は振り返り振り返りしつつ、そろそろと歩き出した。袂に手を入れ、皆水晶の数珠を爪繰りながら、口の中で御法を唱えた。夜道に山犬の遠吠えと読経の低い声が幾度も重なった。 ――もし、そこなる御僧。  不意に声が聞こえた。女の吐息のような声である。  光陰は辺りを見回したが、灯りの一つも見えない夜の道である。人の気配も感じられない。 ――もし、旅の御僧。  声はそう繰り返した。今度は耳元でささやくようであった。
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