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――汝には我が姿の見えるようだが、それがしには汝の姿が見えぬ。何処よりそれがしを呼ぶか。
光陰がそう言うと、今度は車の軋む音が聞こえてきた。車軸のぎりりと唸る音である。今度ははっきりと、光陰の背後からであった。そして、それは徐々に近付いてくるのがわかった。
やがてそれは月明かりに照らされ、闇から浮かび上がるように、おもむろに光陰の前に現れた。
板張りの粗末な荷車を、六歳程と見える童女が牽いていた。禿の顔にかかるのを、小さな手で払いのけながら、息を弾ませて車を牽いている。錦の衣を着ているところは、公家の童女とも思われた。白い顔に、紅を差した唇が妙に浮き目立ち、そんな童女が牛や馬のように荷車を牽く姿は奇妙に思われた。
光陰が近付こうとすると、童女ははっと足を止めた。光陰をじっと見上げて視線をはずそうとしない。
光陰は構わず、荷車の中を覗き込んだ。
女の小袖が丸まっていた。白地の流水紋に源氏車の小袖である。
さては女主人に頼まれた反物を買って帰る途中に難儀でもしているのか、と光陰は思った。光陰は少しでも荷を担いでやるつもりで、荷車の中の小袖に手を伸ばした。ところがこれを掴みあげようとすると、思い手応えがあった。
小袖の下に人の躰があった。
力任せに小袖を剥ぎ取ってまず最初に見えたのは、長い髪のばらばらと零れ落ちる様だった。
そこには女がいた。白い顔の三十路ばかりの女である。琵琶を赤子のように抱きかかえていた。
女は光陰のほうを見た。菩薩のような半眼だった。盲目だった。
女は言った。
――もし、旅の御僧。
それはさっき光陰が闇の中に聞いた声と同じ声だった。か細い絹糸のような声である。よもや魔縁化生の者に出遭ったかと光陰は息を呑んだ。
――かような夜道に何処に参りますや。この辺りは夜盗、山犬、虎狼の類の棲む処に御座ります。
女はささやくように言った。そのように尋ねられて初めて、光陰はこれがどこぞの宿の遊君であることに気付いた。
盲目の半眼の睫毛の黒々として、そこには柔らかな茨の棘に露が落ちたようである。首筋の白粉が汗で落ちかけている。そこに長い髪の毛がべっとりと張り付いていた。
光陰は答えた。
――日の高いうちに野間の内海へ参るつもりであったが、この通りだ。この辺りに宿る処はあるか。
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