第1章

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 すると徐に女は諸手を光陰の顔に伸ばした。思わずのけぞる光陰の顔になお追いすがり、白い指を、眉根、鼻筋、口の端に這わせた。冷たい蛇の腹の感触の如くであった。  女は言った。 ――おお、おお、これはうるわしの若殿や。  光陰は首を傾げた。 ――汝はそれがしの顔がわかるか。 ――わかりますとも、尊き血筋の殿御に御座ります。  光陰は首を振った。 ――残念ながら、それがしは嵯峨清涼寺の僧である。若いには違いないが、汝の思うような若殿ではない。  すると、女は、くくくっと鳩の鳴くような声で笑った。 ――宿る処ならこの程近く。我の侍る宿が御座ります。そこにて御休息召されませ。 ――ならばそうしよう。案内してくれるか。  光陰がそう答えると、女は手招きして車を牽いていた童女を呼んだ。童女は荷台にひらりと跳び乗ると、女の膝の上に座った。そして女は手探りで、童女の額の汗を袖で拭い、手ぐしでその切り髪を梳いてやった。 ――童女も汝を乗せて車を牽くのはさぞ難儀であろう。  光陰が言うと女は答えた。 ――我はかようなる身。自身で歩くことのできざるに、こうして人に車を牽かせて歩きます。  女は光陰に笑いかけた。真っ赤な牡丹のような厚い唇から白い歯が覗いた。 ――宿はこのすぐ近くに御座ります。どうか、功徳を積むと思うて、車を牽いてくださりませ。  光陰は、しばし戸惑ったが、すぐに了解して墨染めの衣の袖を捲り、裾をたくし上げると、車の柄を握った。前に重心をかけると、それはまるで氷の上を滑るように静かに動き出した。  まるで重さを感じない。誰も乗っていないかのようである。  歩くほどに光陰はやがて、振り返る勇気を失っていった。振り返ったら最後、そこには誰もいないのではなかろうか。さもなくば、魔縁化生の類の地獄に落とそうと待ち構えているのではないか、そのように思った。  途端、女が声をかけた。 ――その橋を渡ってすぐに小御門が御座ります。そこに車を着ければ、あとは童女たちが灯明をつけ、御身の夜具の用意を致します。  光陰は振り返らないままで答えた。 ――それは有難い。ところでその宿の名は何と申すか。  女は答えた。 ――アフハカ……。  光陰は思わず振り返った。女は琵琶を抱きかかえ、菩薩のように光陰にほほえみかけた。 ――美濃国、青墓の宿に御座ります……。
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