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序章 主よ、この魂に憐れみを
深い霧の中を一艘の小船が行く。櫂の音だけが響いている。
船の上にいるのは一人の痩せた男である。焼けた素肌の上に胴丸を付け、髪の毛を結いもせずにばらりと垂らし、額に薄汚れた布を巻いて右眼まで覆っている。左眼は黄色く濁って深く落ちくぼみ、こけた頬には無精髭を生やしている。
男は櫂を漕ぐ手を止めて、じっと霧の向こうを見た。息を止めて耳を澄ますと、わずかだが子供の声が聞こえた。微かな吐息で歌っている。
――きりやれんず、きりすてれんず――
男はしばし目を閉じて、それに耳を傾けていた。そして声のする方向に船を向けた。
霧の中に、大きな灰色の影が迫ってくるのがわかった。切り立った岸壁であった。
岸壁の麓に、五本の柱が立っていた。そこに女たちが裸で磔にされていた。白い足を黒い波が洗っている。すでに皆、息絶えていた。身体は水に青白く膨れて、肋骨や目玉のあたりを烏がついばんだ跡があった。
その中央の柱に磔にされていたのは、まだ十歳に満たないくらいの娘であった。この娘は生きていた。しかし、目玉はすでに烏につつかれたあとで、赤黒い固まりになったからっぽの眼窩を、海の彼方に向けていた。白い唇が微かに震えている。
――あんめい、いえぞす、まりあ――
男はそれを水面から見上げる。
まもなく潮が満ちる。そうすれば波はこの娘の頭を洗い、その命を奪うだろう。
娘はすぐ近くに男がいることに気付かない。無心に歌を口ずさみ、そのときを待っている。
男は胸に十字を切った。そして再び船を返し、霧の中に帰って行った。
――きりやれんず、きりすてれんず――
男はキリシタンではない。だが、その歌の意味は知っている。
「主よ、この魂に憐れみを」だ。
寛永四年(西暦1627年)五月、肥州平戸藩。
一人の若者が、オランダ商館へと向かう道を急いでいる。かるさんを履き、腰には大小の刀、手には風呂敷包みを抱えた茶筅髪の青年である。彼は武家の奥方の一行とすれ違うと、ぴたりとその場に立ち止まり、深々と頭を下げて丁寧な挨拶をした。「これが評判の種稲殿か」と若い女中たちが色めき立つが、青年はその様子には気付かない。
若者の名は種稲右近という。平戸城下の刀匠の一人であった。
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