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その日は朝から陰鬱な薄曇りで、今にも雨が降り出しそうである。道には、まだ一昨日の雨が作った水たまりがいくつも残っていた。右近はそれらを次々と片足で飛び越しながら先へと急ぐ。
風は強く、水たまりの水面さえさざめいている。
右近の足は自然と早くなった。今日は潮の匂いが一段と濃い。鼻の中が塩辛いくらいに感じられた。
「黒南風だな」と、右近は思った。
黒南風は、夏の初めに梅雨を伴ってやってくる南からの重たい風だ。この風に乗って雨雲がやってきて、ツバメが飛来し、琉球の船が寄港し、平戸の城下に夏の訪れを告げるのだ。
平戸のオランダ商館は、海を臨む高台の上にあった。阻むものが何もないので、風は一層と強く、右近は思わず身をかがめる。その姿勢のまま門を叩くと、すぐにそれを日本人の通詞が出迎えた。夏物の単衣にオランダ風のかるさんを履き、羅紗の帽子を被っていて、至極奇妙な出で立ちであるのだが、これも平戸では日常の風景に変わりつつある。
「ご所望の品をお届けに参りましてございます」
右近がそう言って、手にした風呂敷包みを見せると、通詞は笑顔になって右近を中へと案内した。
右近がいつも決まって通されるのは、裏手にある炊事場を兼ねた小さな屋敷である。ここは城下の古い武家の屋敷を移築したものであるから、右近はいつもここがオランダ商館だとは思えない。敷地内の他の屋敷はすべてオランダ風であるというから、覗いてみたい衝動に駆られるのだが、一介の職人が商館の中をうろつくわけにもいかない。
しかし、右近の決まって通される座敷からは、正面の障子が開いている日には、商館の表の庭が半分ばかり見えるから、右近はそれでいつも我慢する。
幸い、この日も障子は開いていた。回遊式の日本庭園の中に、小さな薔薇園があり、石灯籠の横に鉄製の柵が立てかけてあるからおもしろい。
右近は風呂敷を解いた。通詞の目の前で長い桐箱の蓋を開ける。中にあるのは、青白く鍛え上げられた刀身である。右近がそれを取り出して、庭のほうにかざしてみせると、雲間に差したわずかな日の光をすくい取って、水滴が弾けるように光った。通詞は感嘆のため息をついた。
「いつも素晴らしい」
通詞は言った。
「あなた様の腕は確かにございますな」
「そんな、滅相もないことでございます」
右近がそう答えると、通詞は首を振った。
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