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そして、その男は大きな帽子をかぶっていた。黒羅紗のつばの広い帽子で孔雀の羽がついている。それが風に吹かれて揺れると、玉虫のような何とも言い難い色を反射して光るのだ。長い巻き毛の金髪が、その下から見えている。背中に落ちかかったそれは、城下の女性たちが見たら、「生糸のようだ」と憧れに目を輝かすに違いない。
「して、このあたりにも、宣教師が潜んでいるというが、種稲殿はご存知かな」
通詞がそう言ったので、右近の意識は庭から引き戻された。右近が聞き返すと、通詞は少し口の端をあげた笑い方をした。右近は言った。
「何故、それを、私に尋ねようということになるのです」
通詞は答えなかった。
そのとき、庭にいた孔雀の羽の帽子の男が、こちらを見たような気がして、右近は顔をあげた。だが、そこにはすでに、誰もいなかった。
右近はその足でまっすぐ自宅に戻った。
右近の家は二間しかない。士分にふさわしくないと同輩にはたしなめられるが、充分な収入があるわけではないから分相応であると右近は思っている。しかもその家は郭外にあって、周囲はすべて畑で、すぐ裏手は深い山になっているから、人の訪れもあまりない。近くに住んでいる者はわずかばかりの年老いた水呑百姓だけで、付き合いらしいものもない。
家に帰り着くなり、外はみるみるうちに暗くなって、とうとう雨が降り始めた。
右近は急いで戸を閉めると、天井を見上げた。もう雨漏りが始まっている。右近が割れた鍋を叩き石に置くと、しずくがそこに当たって、小気味よい雨音が何度も響く。
土間でかるさんの埃を払って、座敷にあがろうとしたとき、右近は、「母上、只今戻りました」と言いかけていることに気付いた。右近は、口を開けたまま、誰もいない座敷の畳を、ただじっと見るのであった。
右近の母は、長い療養の末に先日逝ったばかりである。父親は右近が幼い頃に他界したため、ずっと二人きりであった。母を失うことなど考えも付かないくらいに甘えて育ったが、その母も、もう十年は寝たきりであった。しかもそのうちの二年は、右近の呼びかけにもあまり答えなくなっていた。
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